これまでのみ言葉
「教会の声」 (2004年5月号) 5月2日 主日礼拝説教より)
「あなたがたは聖なる者となれ」
牧師 久野 牧
ペトロの手紙一、1章13−16節
だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。
無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自
身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあ
るからです。 (日本聖書協会 新共同訳聖書)
この段落は「だから」という言葉で始められています。この接続詞は、これまでに語られてきた、キリスト者に与えられてい
る救いとか希望に目を向けながら、それほどの恵みを神から受けているのだから、それにふさわしく生きなさい、という信
仰者に対する勧告や指示へと言葉を結び付ける働きをしているものです。キリスト者に与えられた恵みや憐れみの大きさ
を思うとき、それに対する応答としてのふさわしい生き方がある、ということを手紙の著者はここで教えようとしています。
福音の核心に触れることができた者たちは、そのことを根拠とした新しい生き方へと自己を差し向ける責任と務めがある
ことをわたしたちは教えられます。
まず命じられていることは「心を引き締めよ」ということです。これはユダヤの世界で着用されていた長いすそをもった服
を、力仕事をしたり、競走に参加するときには、持ち上げて腰のあたりで帯によって締めて動きやすくする、ということを背
景にした表現です。それを今、心の状態に適用して、キリスト者に思いがけない試練とか圧迫が襲ってくることがあるかも
知れないが、それに対応できるようにいつも心の緊張を維持しておくことを言い表しています。
次に「身を慎んで」という勧告がなされています。これは本来、酒に酔うことを避けるという意味の語です。それが今、心
の状態に関して用いられています。つまり、キリスト者の周囲には、心を酔わせたり麻痺させたりする教えや思想がうずま
いているけれども、それに対抗できるだけのしっかりした信仰の意識をつねに持つように、との勧めです。
これら二つによって命じられていることは、キリスト者は自分たちが置かれている状況を正しく認識して、発言し行動すべ
きときには信仰の論理を持って発言し行動する、抵抗し戦うべきときには、「神の武具」(エフェソ6:11)をもって敢然と抵
抗し戦う、ということです。
それは現実がどのようなものであるかを見つめる眼を必要とする行動ですが、同時に救いの完成のために再び来られ
る主イエスを見つめる眼をも必要とします。キリスト者を取り巻く現実の姿を正しく見つめる眼と、近づきつつある再臨のキ
リストを見つめる信仰の眼が、信仰者には大事なのです。願い求める者に、神はそれを備えてくださるでしょう。
そのような生き方が「召し出してくださった聖なる方」(15)にふさわしいわたしたちの応答です。この聖なる方とは、もち
ろん神のことです。「召し出す」とは、神がわたしたち人間をご自分のものとして獲得してくださる、神の運動を言い表して
います。その結果、召し出された者は、神に属するものとされます。神のものとされた人々は、まず何よりも神の恵みと祝
福を十分に受け取るために、神のもとに招かれた人々です。召されることの中に大きな喜びと平安があります。
しかし召されたことは、それで留まりません。そのことは次の句によってはっきりと示されています。あなたがたが召され
たのは「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へ招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるた
めになのです」(2:9)。召された者たちは、次に神の救いの恵みの伝達者として神から遣わされます。この働きも、キリスト
者の大切な務めとして心に留めたいものです。
もうひとつ、この部分で命じられていることは、「あなたがたは聖なるものとなりなさい」ということです。これは神が聖
なるお方だから、とその根拠が語られています。「聖」とは、イスラエルの神の特質で、他の一切ものから区別されたもので
あることを言い表す語です。神が聖であるとは、したがって、他の神々と呼ばれるものから完全に区別された存在であり、
唯一無比のお方であることを意味しています。そして、この神によって捕らえられ、神のものとされた者たちも聖なる者と呼
ばれますし、また聖なる者であれと呼びかけられています。
「聖なる者となれ」とは、一つの状態を言うのではありません。むしろそれは動的なことであり、変化の過程を指している
と見るべきでしょう。つまりつねに神に属しているものとしてふさわしく判断し決断し行動することです。これは単に倫理・道
徳・人格上のことだけでなく、義とか公正とか平和に関することにおいても、神が望んでおられることを明らかにし、またそ
れを現実のこととしようとして、自らをそのための道具として捧げること、それが今日における聖なる者となる、ということ
です。神のものとされた信仰者は、神の力に支えられ導かれて、妥協できない強さと、他者に仕える心をもって、意志的に
生きる者たちのことです。