今月のみ言葉
(「教会の声」説教原稿 (6月号) 6月6日 主日礼拝説教より)
「主の言葉は永遠に変わることがない」
牧師 久野 牧
ペトロの手紙一、1章22−25節
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたの
です。こう言われているからです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
(日本聖書協会 新共同訳聖書)
ペトロの手紙においては、これまで神が与えてくださった恵みの豊かさが述べられてきました。そしてその事実に立って、神に対
するキリスト者の生き方が明確に示されました。その中心は、「聖なる者となりなさい」、「父なる神を畏れて生活しなさい」というこ
とでした。それに続いて、教会の中における人と人との関係について述べているのが、22節以下の兄弟愛の教えです。救いの恵
みを受けた者は、神への応答という新しい生き方が始まると同時に、人と人との関係においても新しいものを目指すべきだ、という
ことが示されます。
まず、教会員に向かって、「あなたがたは真理を受け入れた」と告げられています。「真理」とはなんでしょうか。この言葉によって
わたしたちがすぐに思い浮かべることは、学問的真理、科学的真理といったものでしょう。人間の頭脳の働きによって見出された動
かざる原理・原則、それを真理と呼ぶことがあります。しかしここでの真理は、それとは違っています。それは端的に言って、神の言
葉によって示された神の救いのご意志と実行のことです。もっと直截に言えば、神の救いの業の実行者であられるイエス・キリスト
のことです。主は言われました、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)。このキリストを信じることが、真理を受け
入れるということです。また「受け入れる」という語は本来「従う」という意味の用語です。これは頭の中の知的領域で納得したり、感
心したりすることではありません。それは、人が全存在をもって応答すること、真理が指し示す方向に自分の生き方を根本的に変更
することを意味しています。別の表現をすれば、主イエスを自分の生の基盤において生きること、あるいは新しい生の原理にするこ
とです。
その新しい生の原理がここでは、「兄弟愛」として示めされています。「兄弟」とは、信仰者同士のこと、また教会員同士のことです。
なぜ、それを兄弟・姉妹と呼ぶのでしょうか。それは、キリスト者は、神の言葉によって新しく生まれた神の子だからです。新しく生ま
れることについては、1章3節や23節に記されています。新しい誕生によって、キリスト者は、この世に属する者から神の国に属す
るものに変えられました。神を唯一の父とする霊的家族の一員に加えられました。それゆえキリスト者相互は新しい兄弟・姉妹とな
るのです。そうであるならば、新しい関係の中に入れられた者たちは、そのような名で呼ばれることで終わるのではなく、その内実
を伴わせた関係を造り上げなければなりません。それが兄弟愛として語られています。兄弟として互いに愛し合うこと、これが教会
の原理となるようにというのがここでの教えです。このことは、この手紙においてこれからも繰り返されることになります。
なぜペトロの手紙において、兄弟愛のことが強調されるのでしょうか。それはこの手紙を受け取っている小アジアの教会のおかれ
ている状況に深く関わっています。これらの教会は、今、外からの攻撃や迫害といった困難な状況の中にあります。そのような中で
教会に求められることは、信仰における一致・結束です。差し迫った状況の中で、教会が内部で乱れていては外の力に対抗すること
はできません。兄弟愛を欠いては、教会は内部から崩壊してしまいます。主イエスも次のように教えておられます。「国が内輪で争え
ば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家はなり立たない」(マルコ3:24−25)。だからこそ、互いに生かし合い、支え
合い、補い合う関係が教会の肢々の間で造り上げられることが不可欠なのです。そこに兄弟愛が勧められる理由や事情があります。
パウロも次のように教えています。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊
敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ロマ12:.9−10)。わたしたちはキリストによって新しくされたのですから、この
主に倣うことによっていくらかでも兄弟愛の実践者であることを目指していくことが、いつの時代も教会の緊急かつ大切な課題です。
キリスト者の新しい誕生が、23節以下において別の角度から述べられています。それは自然界の草花が朽ちる種から生じている
のに対して、キリスト者は朽ちない種、すなわち「神の変わることのない生きた言葉によって生まれた」者たちだということです。
永遠に変わることのない神の言葉、すなわちイエス・キリストによって新しく生まれさせられた者は、神の永遠性・恒久性に支えら
れた者とされています。たとえこの世の中で敗れ、傷つくことがあったとしても、わたしたちの命は永遠の神に支えられています。
わたしたちの世界もこの神に支えられなければなりません。そのためにも、世界は神の言葉を聞き続ける必要があります。教会は
そのために仕えるのです。