今月のみ言葉  
「信仰のつまずき」
           牧師 久野 牧
              「教会の声」説教原稿 (7月号)   (7月4日、主日礼拝説教より) 

 ペトロの手紙一、2章6−8節
 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望するこ
とはない。」従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の
捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずく
のですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。                                           
                                                         (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 ペトロの手紙においては、信仰者個人の成長について語るだけではなく、教会の成長についても語ります。教会は、イエス・キリス
トをかしら石とする霊的な家です。教会は、主の恵みを受けながら、主の御心を行う群れとして成長しなければなりません。そのため
にも、教会の土台は、神が据えてくださった主イエス・キリストという「石」であることを常に確認する必要があります。このことは神の決
定によるものであることを、著者は旧約聖書を引用しながら確証します。
 6−8節には、旧約聖書の三箇所からの引用があります。最初のもの(6節)はイザヤ書28章16節からです。神はイスラエルに確かな
(いしずえ)をおく、これを信じる者は決して失望に終わることはない、というものです。そしてその礎こそ、主イエス・キリストのこと
なのだ、とペトロは語ります。次は詩編118編22節からの引用で、この「石」は他の何ものによっても掛け替えることのできないも
のであることが語られます(7節)。そして3番目(8節)は、イザヤ書8章14節からの引用です。この「石」を信じない者にとっては、それ
は「つまずきの石、妨げの岩」でしかないことが述べられています。
 わたしたちはまず、「これを
信じる者は、決して失望することはない」との言葉に注目しましょう。わたしたちは日常の生活において、信じることによって裏切られた
経験を持っています。失望しないために誰をも信じない生き方を身につけてしまっているかも知れません。しかし聖書の世界は違います。
信じても裏切られることのないお方として、イエス・キリストを指し示しています。イザヤ書28章16節の言葉は、パウロによっても引用
されています(ロマ10:11)
 また、わたしたちを取り巻いているさまざまな問題があります。それは突き詰めれば罪と死の問題に帰結するでしょう。その問題を解
決してくださるお方は、神が救い主としてわたしたちのために送ってくださったイエス・キリスト以外にはおられない、というのが聖書
の使信です。これは、論理や説明の範囲に属するものではなく、信じる以外にない事柄です。そして信じる者は、決して失望に終わるこ
とはない、と聖書は約束しています。
 一方この「石」を信じない者たちにとっては、それは「家を建てる者の捨てた石」に過ぎないものである、すなわち何の価値もないどこ
ろか、かえって邪魔な存在になると言われています。「家を建てる者」とは比喩的な表現ですが、聖書に即して言えば宗教の専門家たち
のことです。旧約においては祭司長や民の指導者たちのことであり、新約においては律法学者やエルサレム議会の議員たちです。彼ら
は、神が示されたメシアを否定し、また、メシアとして現れた主イエス・キリストを拒否しました。人々もまた主を、救い主として受け入れる
ことを拒みました。こうして神の民の礎としての主イエスは、預言どおり、捨てられたのです。それは、自分たちの救済観、宗教観、価
値観に主イエスが合わない者だったからです。
 ここでわたしたちは、次のことに思いを寄せてみましょう。イエスは人々によって捨てられた不幸な人である、と多くの人は考えます。
果たしてそうでしょうか。「人が、イエス・キリストを捨てることは、イエス・キリストにとっての不幸ではなく、その人自身の不幸である。
イエスに下す人間の裁きは、次にはその人自身が受ける裁きとなるであろう」。主イエスも次のように語っておられます。「人々の
前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(マタイ10:33)。「知らないと言う」とは、「拒む」
ことです。
 そのことが8節では、違った角度から述べられています。「彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるよ
うに以前から定められているのです」。これは、主イエスを信じることができない者たちは、初めから神によってそのように定め
られている、彼らは初めから救いにあずかれない者として定められている、と語られているかのようです。このことは、宗教改革期
以後に盛んに論じられた〈二重予定説〉、すなわち、ある人は救いに入れられ、ある人は救いに入れられないことが、神によって
初めから決定されている、という考えに通じます。そのことがペトロの手紙で論じられているのでしょうか。そうではありません。
それは次の10節からも明らかです。「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかっ
たが、今は憐れみを受けている』のです」。異邦人に対してこのことが語られています。主イエスに対する関わりのあり方で、その
人の神の前での永遠の存在が決定されるのです。
 したがって、8節後半の意味は次のように考えることができるでしょう。神はイエス・キリストによってのみすべての人を救うこ
とをお定めになりました。そしてこの救いに神はすべての人を招いておられます。「神は、わたしたちを怒りに定められたのではな
く、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずかるように定められたのです」(テサロニケ一、5:9)。そのように神が救いの手段
を主イエスにおいて定められたのですから、その手段を人が拒むとするならば、それは神の与えようとしておられる救いそのものを拒
むことになります。それは必然の結果です。そのことが「定められている」ということの内容です。
 イエス・キリストにどのよ
うに関わるかによって、わたしたちの神の前における永遠の生と死が決定されます。「イエス・キリストはどのような方であるか」という
問いに、わたしたちは客観的にとか第三者的に答えても意味がありません。「あなたはどうなのか」と問われています。そして、「わたし
は、イエス・キリストこそ、わたしの唯一の救い主であると信じる」との告白にすべての人が招かれています。それは神による罪の赦し
と新しい命に招かれている、ということです。
 
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