今月のみ言葉  
「キリストの模範」
           牧師 久野 牧
              「教会の声」説教原稿 (月号)   (8月15日、主日礼拝説教より) 

 ペトロの手紙一、2章21−23節
 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)
 

 今日の聖書テキストは、2章18節から書き始められた召し使いたちに対する勧告の続きです。手紙の著者は、この前の部分で、召し使いたちが、主人から、たとえ不当な苦しみを受けることがあっても、「主のゆえに」それを耐え忍ぶように勧めました。それが「神の御心に適うことです」(20)と述べています。
 21節以下はその続きですが、最初に「あなたがたが召されたのはこのためです」とあります。「召された」というのは、招かれた、招き入れられたという意味です。主体は神です。召すとは、物理的なことであれ、精神的なことであれ、ある場所から他の場所へ移されることです。この移動には、なにかはっきりした目的が伴います。それが「…このためです」という言葉によって表されています。「この」とはなんでしょうか。それは、19,20節で二度くりかえされている「神の御心に適うこと」、すなわち不当な苦しみの中で、なお耐え忍ぶことを指していると考えられます。
 もう少し、召されるということについて考えてみましょう。「召されること」には二つのことがらがあります。一つは、仕事や務めに召されることです。それは一般に召命と言われます。もうひとつは、信仰に召されること、すなわち信仰を与えられることです。ここでは、後者の意味で用いられています。あなたがたは、今召し使いという立場にある、そういう状況の中でキリストを救い主として信じる信仰へと召されたのは、苦しみの中でなお耐え忍ぶことができるものとなるためである、というのがこの部分の意味することです。ペトロの手紙一では、次のようにこの語が用いられています。「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(3:9)。「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて(召し入れて)くださった方…」(2:9)。これらによれば、召された者の客観的・外的状況は少しも変わらなくても、その人の内面では既に新しい世界が獲得されていることが分かります。
 そうすると、「召される」こと、信仰の世界に招き入れられることは、本来喜ばしいことであるはずです。暗闇が光に変えられ、絶望が希望に変えられ、死が命に変えられるからです。そこには今までにない平安や感謝や喜びが生じるはずです。信仰に召されることによって、わたしたちはそのことを体験し、確信することができます。
 しかしそれだけに留まりません。別のことが新しく始まることもあります。それが現実の苦しみの中で耐え忍ぶことです。これは第一の喜びや感謝があるからこそ、それに基礎付けられて、信仰者に与えられるものです。苦しみと忍耐、これは信仰の副産物ではなくて、信じることに必然的に伴うものである、と言って良いでしょう。パウロも次のように述べています。「あなたがたには、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1:29)。
 しかし苦しみの中で、しかも不当な苦しみの中で、それに耐えることのみが求められ、それが神の御心に適うことだと言われても、それだけでは納得できないのではないでしょうか。苦しみに耐える積極的な、明確な動機づけが必要なのです。いやそれがあるはずです。それがペトロの手紙では、<キリストの模範>として、次のように示されています。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」(21)。「模範」とはなんでしようか。これは本来こどもなどの学習者が、文字を習うときの手本・見本となるもののことです。キリストは、信仰者たちがその足跡に続くようにとわたしたちの模範となってくださったのだから、皆このキリストに倣って自分の生き方を作り上げていきなさい、と勧められています。主イエスの生と死の姿の中ににじみ出ている神への姿勢や他者との関わりを正しく捉えて、その生き方を自分のものとしていくことが、主イエスに倣うということです。
 それでは、主イエスの生き方のどの点に倣えと言われているのでしょうか。22節以下にそのことが記されています。この部分には、イザヤ書53章にある「苦難の僕の歌」と呼ばれる歌からの引用がいくつかなされています。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(22)は、イザヤ書53章9節から、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(23)は53章7節から、「正しくお裁きになる方にお任せになりました」(23)は53章12節からの引用です。このように、イザヤ書53章に描かれている、苦難を耐え忍び、決して自分で復讐や報復をする道を選ばずに、すべての裁きを神に委ねる信仰の人として描かれている苦難の僕は、神への全き従順と信頼に生きた主イエスにおいて実現された、というのが聖書の理解です。そしてこの主イエスの生き方の中に、キリストを主と信じるすべての者たちの倣うべき模範がある、というのがここでの教えです。
 主イエスは、勇気がなかったわけではありません。臆病であったのでもありません。ただ神のみがすべてをご存知であり、すべてを正しく裁くことのできるお方であるとの絶対的な確信のゆえに、神の裁きに委ねつつ、御自身に襲いかかる苦しみに耐えられたのです。神への信頼、終わりのときへの希望のうちに、苦しみを耐え忍ぶことをとおして、主は、信仰に生きることの強さを証ししてくださいました。それによって主御自身が語られた「体は殺しても魂を殺すことのできないものどもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)という生き方と死に方を、御自身をとおして現実のものとしてくださったのです。
 信仰に召された者たちも、必要とあらばそのように生きることによって、正義の神を証しし、人々の目をその神へと向けさせる働きをすることができるのです。神が信仰者のその生き方を、御自身の証しのために用いてくださるのです。その証しのためにあなたがたは召されたのです、と召し使いたちは語りかけられています。同じことが、今わたしたちにも語りかけられています。
 これは実際は大変難しい生き方です。しかし、主イエスが「わたしに従いなさい」と言われるとき、ここでペトロが示している生き方をも含んでいたことを深く考えたいものです。
 
 
 ホーム         これまでのみ言葉