今月のみ言葉  
 
 「祝福を受け継ぐために」      
 ペトロの手紙一、3章8−12節
          牧師 久野 牧
              「教会の声」説教原稿 (10月号)   (9月12日、主日礼拝説教より) 

 
 ペトロの手紙一、3章8−12節
 終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 2章11節以下において、いろいろな立場にあるキリスト者に対して個別的な勧告がなされてきましたが、この3章8節以下においては「終わりに、皆」()とありますように、さまざまな立場を超えて、すべてのキリスト者に共通に適用される勧告が述べられることになります。ここにあるいくつかの勧告を分類する仕方はいくとおりかあるのですが、一応次のように分類しておきます。8節に記されている五つの勧め ―心を一つにすること、同情し合うこと、兄弟を愛すること、憐れみ深くあること、謙虚になること―は、教会の群れにおいて信仰者同士がお互いに心がけるべきことがらという性格のものです。9節の「悪をもって悪に報いるな」と「かえって祝福を祈りなさい」との勧告は、教会がおかれている異教社会の中で、異教の人々に対して、キリスト者がどう接すべきかの勧告として考えることができます。
 生まれて間もない小アジアの教会は、国家的な権力や異教徒の攻撃といった圧迫の中で生きるほかありませんでした。そのような困難な生活を強いられている信仰者たちに、著者は勇気と励ましを与え、信仰に立ってよき証しをせよと促しています。
 最初に五つの勧告のそれぞれの要点を考えてみましょう。ここで信仰者たちがこの勧告を聞くに当って目を向けるべきは、その生涯を神への服従として全うされた、模範としての主イエス・キリストです。このお方に目を向けつつ、教会の宣教の戦いを共に担っている兄弟たちに心を向けるべきことが何であるかが、具体的に示されています。
 第一は「心を一つにせよ」です。教会のなすべきこと、教会が言い表すべきこと、教会が闘うときの旗印、それらを一つのものとして共通に持て、ということです。パウロも次のように述べています。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ(心を合わせて、神をほめたたえさせてくださるように)(ロマ15.5―6)。この「同じ思いを抱く」が、心を一つにすると言うことです。
 次の「同情し合え」というのは、心を一つにすることのさらに細かい適用であると考えて良いでしょう。別の訳では「互いに苦しみをわかち合え」となっています。この世の戦いの中にある信仰者を孤立させないものは、この互いの同情です。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12.15)は、「同情し合え」のよき説明となっています。
 第三は、「兄弟を愛しなさい」です。人間の愛に先立って示され、差し出された神の愛に応答する人間の愛は、神に対してだけではなく、人に対しても示されなければなりません。教会内では、それは兄弟愛と呼ばれます。
 次に「憐れみ深くあれ」と勧められています。これは良くご存知のとおり、人間の感情の座とされる内臓がかきむしられるほどの激しい感情の動きを言い表すものです。主イエスは、飼い主のない羊のようなイスラエルの人々をご覧になって、「深く憐れまれた」(マタイ9.36)と記されています。心の奥底から、彼らに対する憐れみを覚えられました。教会内においても、教会外においても、悲惨の中にある人々に対して憐れみの感情を失っては、共に生きることはできなくなります。この感情が、ふさわしい行動を呼び起こすからです。「文明の進歩は感性の衰退をもたらす」という傾向に対して、信仰者は抗して生きるべきなのです。
 第五の勧告は、「謙虚になりなさい」です。謙虚であることこそが、キリスト者の最大のしるしである、と言われるほどに、大切なものです。主イエスは、御自分は「人々から仕えられるためではなく、人々に仕えるために来た」と言われ、事実、僕
(しもべ)として御自身をささげられました。謙虚であるとは、自由な心をもって他者に仕えることができることです。これはどこから生まれてくるのでしょうか。それは、人間は創造主ではなく、創造主である神によって造られたものである、という認識からです。他者を、支配する相手としてではなく、仕える相手として見ることができるというのが、謙虚である、ということです。
 以上が特に教会内における信仰者たちの相互の交わりの中で、一人一人が取るべき相手への態度として勧められているものです。それに続いて9節では、報復や復讐を禁じることが教えられています。この勧めがなされる背景に、異教徒や非キリスト者から、キリスト者が敵意を抱かれたり、侮辱されたり、攻撃されたりするといった厳しい現実があったことが考えられます。そういう状況下で、この「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いないように」との勧めがなされているのでしょう。主イエスもそのように教えられ、事実そのとおりに生きられました。これこそが神に属する者の生き方なのです。
 報復や復讐に代わって勧められることは、信仰者に苦しみを負わせる者のために祝福を祈れ、ということです。パウロも同じことを勧めています。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」(ロマ12.14)。祝福を祈るとは、分かりやすい言葉で言えば、繁栄を祈るということです。そして神の前での祝福、繁栄とは、その人が神のものとされること、神が御子をとおして与えようとしておられるもっとも大きな贈り物である罪の赦しと新しい命が、その人のものとなることです。自分が神の祝福を受けることが許されていることを確信できるものは、同じ祝福が他の人のものともなるようにと、心をこめて祈ることができるのです。「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」とは、そういう意味を持っています。
 「祝福するとは、ある者の上に手を置いて、『さまざまなことがあるにせよ、あなたは神に属する者だ』と宣言することである」、「われわれはこの世を軽蔑しない。呪わない。かえってわれわれは、この世を神の前に呼び出し、この世に希望を与え、この世の上に手を置いて、次のように宣言する。『創造者であり、救済者である方に属する世界、神に造られた世界よ。神の祝福があるように』」(ボンヘッファヘー)。これは執り成しの祈りに通じる信仰者と教会の大切な務めです。悲しみと破壊と殺りくに満ちた今日の世界のために、神の祝福を熱心に祈り求めることは、緊急かつ真剣なわたしたちの課題なのです。「神よ、この世界をあなたの祝福で満たしてください」。

 
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