今月のみ言葉  
「残りの生涯を御心に従って」      
  ペトロの手紙一、4章1−2節
           牧師 久野                                   
           「教会の声」説教原稿 (11月号)   (11月14日、主日礼拝説教より) 

 
 ペトロの手紙一、4章1−2節
キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 苦難の中でのキリスト者の生き方を語るペトロの手紙ですが、2節に注目してみましょう。そこでは、キリスト者は、人間の欲望に従って生きるのではなく、神の御心に従って生きるべきである、と語られています。これは説明の必要がないほどに、よく分かる指示であり、勧告です。対照的にあげられている人間の欲望と神の御心の二つの中で、キリスト者は、当然、神の御心に従うべきなのです。
 ここで、日本語ではよく分からない言葉の使い方に注目してみましょう。それは、ここで用いられている「人間の欲望」は複数形であり、「神の御心」は単数形である、という違いです。人間の欲望は多種多様です。物欲、肉欲、所有欲、支配欲等、あらゆる領域で多様な表れをします。その複雑さが、複数形で表されている、と考えることができます。一方、ペトロがよく用いる神の御心(2・15、3・17、4・19)は、一つの事柄に関しては一つの確かな神のご意志のみがある、といった意味で単数形が用いられています。神の御心は迷いなきものとして存在します。それを受けるわたしたち人間の側に、さまざまな迷いが生じるのが現実です。そのようなわたしたちが最終的に選び取り、自分自身を委ね、従うべきは神の御心なのです。
     
 その神の御心に従って「肉における残りの生涯」を生きて行こう、と呼びかけられています。「肉における」というのは、キリストの場合にも用いられたように、この地上における人間の生、時間や空間の制約の中にある人間存在のことです。
 では「残りの生涯」とはなんでしょうか。これはふつうには、ある仕事や務めをなし終えたあとの余生とか、ある危機的事態を乗り切ることができたあとの、なお許されている日々、といった意味で用いられることがあります。しかし、このペトロの手紙は、建設されてそれほど長い年月を経た教会ではなく、若い小アジアの教会に宛てて書かれたものです。その教会を構成する教会員(信仰者)の中には、高齢の者もいたでしょうが、また壮年の者、若い者もいたはずです。そうなると、残りの人生という内容は、この世における肉体的、社会的年齢ということとは別の枠で考えなければならないことになります。
 そう考えるとき、これはイエス・キリストとの出会いによって始まった新しい日々のことである、ということが分かってきます。キリストとの出会いが、一人の人間の生涯を決定的に分ける分岐点となる、ということです。キリストとの出会いによって、それまでの日々が備えの日であったことが示され、いよいよ本番の命の舞台が自分に始まることになるのです。それが残りの生涯という意味です。
 世界の年代()は、紀元前BC(Before Christ、「キリスト以前」)と紀元後AD(Anno Domini、ラテン語でアンノ・ドミニ、「主の年」の意)とに分けられます。世界の歴史が、キリストを起点として、それ以前とそれ以後とに分けられていることは、キリスト者にとっては、意味深いものとして考えることができます。
 わたしたち一人一人の人生や歴史も、キリストとの出会いを中心にして、キリスト以前(BC)とキリスト以後(AD)とに分けて考えることができるのではないでしょうか。キリスト以前のときは、キリストに出会うための備えのときであり、キリスト以後は、キリストに属するものとして、御心に従うべき新しい日々が始まります。そういう違いがあるのです。わたしたちの生涯におけるキリスト以後の歩みが、ここで言われる残りの生涯なのです。「残り」という言葉の響きとは裏腹に、これはキリスト以後の本番の人生を意味してます。
 その残りの生涯は、人によって長い短いの違いはあります。すでに残りの生涯を半世紀以上歩んでこられた人、それが始まって間もない人、これからその生涯に踏み入ろうとする人、さまざまです。そのいずれであったとしても、主のものとされた限りは、その日々を主の御心に従って生きる、そのようにして主にお応えし、また終末に備えることが、神の前に祝福された生となるのです。
 使徒パウロは、ガラテヤの人々に「あなたがたは“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」と鋭く詰問しています。わたしたちは、キリストによって残りの生涯を始めたのでしたら、キリストによってそれを仕上げる、それしかありません。つまり、死に至るまで、キリストのものとして生きるのです。わたしたちの主であるイエス・キリストに導かれて、神の国にある「いのちの書」に自分の名が刻まれている者にふさわしく、雄々しくかつ誠実に、残りの生涯を生き抜きたいものです。

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