テトスへの手紙 3章4−7節 しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 |
人は、新しさを求める存在です。特に、死ですべてが終わってしまうことに空しさを覚えて、死を迎えることが決して自分の人生を無駄にしてしまうことではないとの確信を得たいと願っている人、何か新しい命とか世界を手にしたいと真剣にそれを追い求めている人もいるに違いありません。聖書の中にも新しく生まれることを願う人が記されています。ヨハネ福音書のニコデモはその一人です。また新しく造られるとは何かについての教えが、くり返し出てきます。「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(コリント二、5.17)とパウロ言っています。 そして聖書のみ言葉を見る限り、人が新しくされるとか、新しい者に造り変えられるということは、神の力、キリストの力、聖霊の力によるほかないことが明らかにされます。人間の業や力や努力によって変えることができるものは、表面的なことであって、存在の根底から造り変える 造り変えることができるのは、上からの力だけである、と聖書は告げています。つまり、神のみがそれをなすことができるというのです。 それでは、聖書が語る、新しく生まれるとか、新たに造り変えられるとは、どういうことでしょうか。それは、「救い」という言葉で言い換えることができます。そうであれば、新しくされることの内容を問うことは、救いの内容を問うことでもある、ということが分かります。それは、ひとことで言えば、神の子として神に受け入れられること、神の国の一員とされることです。神によって、「あなたはわたしのものである」と告げられること、それがわたしたちの救いです。そこに新しく造り変えられた人が生まれる、ということが起こるのです。 神は、ご自分のうちに豊かにある「慈しみ」(4)、「憐れみ」(5)によって、また「人間に対する愛」(4)によって、わたしたちにそのように関わってくださるお方です。神はそれによって、わたしたちの神への背きの罪も、神が造られた他の人々や自然に対して犯した過ちも赦してくださり、受け入れてくださるのです。それによってわたしたちは、この世の目や測りや価値観から解放されて、自由に生きることができる者とされます。それ は、新しい人の誕生であり、神のみ手による人間の再創造が起こったということです。 さらにそのような神との関係に入れられた者は、将来に対しても、神からの約束を受けているものです。「希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされた」(7)ということです。「永遠の命」とは、神の国に属する命のことです。地上の命、肉体の命が朽ちゆく命であるとするならば、「永遠の命」「神の国に属する命」とは、朽ちゆくことのない命のことです。それによってわたしたちは、死と死のあとのことについて何も心配することはない者とされます。すべては神のみ手の内にあるゆえに、死への不安と恐れを神から取り除かれるのです。 ☆ わたしたちは何によってそのようなことを信じ、また確信することができるのでしょうか。神のそのような働きを保証するものは何でしょうか。わたしたちはそのしるしを知りたいと願います。それに対して、聖書が、その最大のしるしとしてわたしたちに指し示す出来事こそ、神による御子イエス・キリストのこの世への派遣という出来事です。神の独り子イエス・キリストの人としての誕生、その十字架の死、復活、さらに神のもとに 上げられたこと等、イエス・キリストの生と死の出来事こそ、神がわたしたちに対して持っておられる愛と慈しみと憐れみの最大のしるしです。 そこには、神がいかにわたしたち人間に対して深い関心を持っておられるか、いかにわたしたちをご自分のもとに引き寄せようとしておられるか、そして永遠の交わりを持とうとしておられるかが、集中的に表されています。それは、神が御座から立ち上がって、イエス・キリストにおいてわたしたちのもとにまで降りてきてくださったことの表れです。クリスマスは、そのことを心新たに確認し、確信するとともに、この神にお応えしようとするわたしたちの側の決断が強められるときでもあります。 この神の愛の出来事の対象として、すべての人が、神のみ心の中で考えられています。そしてわたしたちがそのようなものとして自分自身を捉えることができるならば、年老いて行く人生であっても、相変わらず罪とがの多い人生であっても、肉体的・精神的に病める人生であっても、絶望ではなく、希望のうちにわたしたちは生きていくことができるでしょう。そのように生きることができる者こそ、新しく造り変えられた人なのです。 神は、み子イエス・キリストにおいて 表されたご自身の愛のしるしを、わたしたち一人一人の体にも刻みつけることを願っておられます。「あなたはわたしのものだ」と言われる神の約束と宣言が一人一人のものとして受け止められるために、神はご自身が用意されたしるしをわたしたちが受け取るように求めておられます。それは何でしょうか。それは、水の洗い、すなわち洗礼です。み子キリストの出来事を、神の愛のしるしとしてわたしたちが受け止めるようにと、働いておられる聖霊なる神は、わたしたちを洗礼へと導く働きをもしてくださるお方です。神の救いのしるしとしての洗礼を受けることをとおして、わたしたちは新しい人として生まれ変わり、神の国の命の書に自分の名が刻まれるのです。 神はそのとき、その人の資格を問うことはされません、業績を見ることもされません、過去をつぶさに調べることもなさいません。ただ、自分自身への執着から離れて、神に一切を委ねる神への信頼と、神への自己委託のみをお求めになります。「すべてを任せよ」と呼びかけられる神の招きに応えようとするとき、人は洗礼へと導かれます。神は、このように今も、聖霊をとおして恵みの業を続けてくださっています。 人は、悲しみや痛みや絶望で、この世 の生を終わるように造られたのではありません。新しい命の望みをもって、平安のうちに時を過ごし、希望のうちに生を全うするように造られているのです。 神は、そのことをわたしたちに改めて知らせるために、今年もわたしたちの教会にクリスマスの喜びのときを与えてくださり、礼拝へと招いてくださいます。このクリスマスの恵みを受けることからわたしたちの新しい歩みが始まります。 |