今月のみ言葉  
  「生者と死者を裁く方」                  
      ペトロの手紙一 4章3−6節                 
           牧師 久野                 
           「教会の声」説教原稿 (月号)    

 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 人の生涯をキリストとの出会いによって、それ以前とそれ以後とに分けることができることを、4章1−2節によって教えられました。キリストとの出会い以後に始まった新しい生を、2節では「肉における残りの生涯」と言い表しています。それに対応するキリストとの出会い以前の日々は、3節で「かつて」と言い表されています。口語訳では「過ぎ去った時代」となっていました。その「かつて」の時代を特徴づけていたものが何であるかが、3節に記されています。これは聖書の中にしばしば出てくる「悪徳表」といわれるものです。これらは、キリスト者となって生きている人々がかつてその中で生きていたものでした。しかし、今はそれが否定されています。
 なぜこれらの行為や生き方が否定されるのでしょうか。それは、ひとことで言えば、キリスト者の生の主人が代わったからです。わたしたちを支配するお方が代わったからです。新しい主人に属するものとして生き始めた者は、主人に喜ばれるように生きることが、その人の大きな課題となります。そして新しい主人であるキリストの香りを漂わせる生き方をしようとすれば、当然、キリストの香りを打ち消すようなかつての生き方とは断絶するほかないのです。
 さらに、聖書は、わたしたちの新しい主が再び来られる時が近づいているというもうひとつの視点からも、悪しきものから身を引いて、終わりの時に備える生き方をするようにと促しています。終末の時、救いの完成の時が近づいている、その時に再び来られる主の前にどのような姿を見せるかは、キリスト者にとって切実な問題なのです。
 新しい主を得たキリスト者の生き方を特徴づけるもののひとつに祈りがあります。祈ることにおいて今の生き方を主に問い、神からの指示を受ける、祈ることによって来りつつある主にお会いする備えをする、それはキリスト者にとって基本的に大切なことです。しかし悪徳表にあげられたことがらは、すべて祈りを妨げるものばかりです。それゆえ、これらの行為が「残りの生涯」を送っている人を支えることはないのです。祈りこそが新しい生を支え、方向づけます。だから、キリスト者は、それらの悪徳と決別しなければなりません。
 それは実際的には、かつての時代を共に生きた人々、そして今もなおその時の中に生きている人々に対しては、非同調的になったり、非妥協的になったりすることは避けられません。彼らとの交わりを断つことも起こります。そのため、今もなおかつての時代に属している人々から信仰者は、不審に思われ、そしられることもあります()。それが極端な場合には、いろいろな理由をつけて訴えられることにもなってしまいます。ペトロの手紙の読者たちがおかれている状況はそのようなものでした。彼らは迫害を受けることもありました。それは裏を返せば、彼らが如何に決然とした姿で、信仰者としての新しい生き方をしていたかを示しています。
 日本の初代のキリスト者や先駆的な働きをしたキリスト者も、そのような生き方を貫いた人々でした。キリスト者としての気概とか気骨をしっかり持っていたのです。もしかすると今日のわたしたちは、それらを全く失ったとまでは言わないとしても、その点において貧しくなっているのかも知れません。もしそうであれば、時が縮まっているとの信仰における認識によって、わたしたちは持つべきキリスト者の気概というものを回復する必要があるでしょう。来たりつつある主の前に自らを整えることによって、この世界の人々を主の前に整えられた民として備えさせることが、教会の大切な務めなのです。この年、この務めにおいて一歩前進を見ることのできるものでありたいと願います。
      
 さて、かつての時代に属している人々から批判されたり、ののしられたりしていた小アジアの信仰者たちの立つべき根拠の一つは、彼らの新しい主となられた方が、「生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方」()との信仰や確信です。つまり、この世の人々からどのようにそしられても、裁かれても、それが最終の判決なのではなく、この世のあらゆる裁きを超えて究極の裁きをなさる方がおられる、それが自分たちの真の主であられるということが、苦難の中にあるキリスト者の慰めであり、希望であり、忍耐の根拠なのです。この方の前で、すべてのものが究極の裁きを受けるということは、聖書に繰り返し述べられています。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(ロマ14・10)。キリスト者は、この方が最終の審判者であることを知っている者たちです。それゆえ、地上の権力や敵対者によってどのように裁かれようとも、それを最終的なものと考えることから解放されています。この方の存在を知っているか否かは、その人の生き方に決定的な違いを生じさせます。
 今日の世界の課題は、神への畏れを回復すること、さらに最終的な審判をなさる方についての知識を正しく持つことです。それによって、この方がお出でになったときに、申し開きのできる生き方をすることです。それは今すぐに始められなければなりません。
 再び来られる主が、「生きている者と死んだ者とを裁かれる方」であるということは、わたしたちに希望をもたらすものでもあります。なぜなら、この主はその裁きにおいて、主に属する者たちに新しい命、復活の命を与えてくださるからです。わたしたちにとって、死が最終のことではないのです。死でもってすべてが終わりというのは、「人間の見方」です。「神との関係」()では、すなわち神にとっては、そうではありません。神は死んだ者たちにとって、命への扉を開くことのできる唯一の方です。神は御子の死からの復活によって、その力を表してくださいました。その同じ力が、既に死んだ者であろうが、生きている者であろうが、主イエスに結びついている者すべてに対しても発揮されます。「このような知識は、キリスト者に、すべてのものに対し忍耐を持ち、すべてのことに希望を持ち、しかも神に服従し、異教的な事柄から離れて固く立つことをさせるであろう」(シュラッター)。この希望の知識は、それに従って生きることと、それをこの世に向けて力強く証しすること、これらの責任と務めを教会に負わせるのです。 (1月2日 主日礼拝説教より)

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