今月のみ言葉  
「キリストの苦しみにあずかる」      
      ペトロの手紙一 4章12−13節
        牧師 久野                                   
              「教会の声」説教原稿 (2月号)

 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「愛する人たち」という呼びかけで始められている4章12節以下においては、信仰者の受ける苦難や試練が主題となっています。信仰者として生きようとするとき、以前にはなかった苦しみが生じることがあります。この手紙の読者たちは、その渦中におかれています。そのような彼らに著者は、信仰者として苦難をいかに受け止めるべきかについて語ろうとしています。その際著者は、二つの側面からこの問題に迫ります。12節では、否定的・消極的な面から、この苦しみに対して「いかにあるべきでないか」について、そして13節では、逆に肯定的・積極的な面から、苦しみに対して「いかにあるべきか」について語っています。その二つの勧告に耳を傾けてみましょう。
 ここで言う苦しみとは、キリストへの信仰に従って生きようとするときに、信仰者に襲いかかる外からの圧迫、抵抗、攻撃、また組織化された迫害などのことです。それを単なる苦しみとして捉えずに、神からの試練として捉えることができるというのが、聖書に一貫した教えです。つまり苦しみの背後に神を見るのです。「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5−6)。神は苦難をとおして、わたしたちを鍛え、わたしたちの信仰をますます堅固なものにしようとしておられます。
 そのことを表すものとして、「あなたがたの身にふりかかる火のような試練」(12)という語句が目に入ります。これは、実際の試練がとても厳しいものであることを表しています。それと同時に、これはある種の比喩的な表現としても理解することができます。つまり、灼熱の火が金属の鉱石を精練して、より純度の高いものにしていくように、今読者たちを襲っている試練は、彼らの信仰からさまざまな混ざりものを焼き払って、ひたすら主イエス・キリストのみに集中させようとしているものなのだ、という意味合いで用いられている、という理解です。これら二つの意味が「火のような試練」という語句の中に含まれています。
 それでは、このような苦難、神からの試練を信仰においてどのように受け止めたらよいのでしょうか。そのことについてまず12節の否定的な面からの説明である「いかにあるべきでないか」について考えてみましょう。ここには、次の二つのことが語られています。一つは、試練を何か思いがけないことが生じたかのように思うなということであり、二つ目は、それらを驚き怪しんではならない、ということです。これは、読者である小アジアの信仰者たちが、信仰ゆえの苦難を、なにか信仰には無縁なもの、異質なものと考えていたことを示しています。信仰を持てばあらゆる苦しみから解放されて、幸せな日々が訪れると彼らは考えていたのでしょう。そういう中で襲ってきた苦難を彼らは、驚き怪しんで受け取るほかなかったのです。それに対して、著者は、これは神からの試練だ、あなたがたを滅ぼすためのものではなく、かえってあなたがたを鍛え上げるためのものだ、ということを何とか理解させようとしています。聖書には、それに関する言葉を数多く見出すことができます。一つの例として、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1:29)というパウロの言葉があります。「目前の感覚で、ことを測るな」(カルヴァン)ということでしょう。目の前で起こっている出来事に隠されている神の意図を読み取ることが促されています。
 教会は、キリストの体といわれます。それゆえ、教会はその存在と働きをとおして、キリストを現さなければなりません。キリストによる罪の赦しの恵みを余すところなく明らかにしなければなりません。そのとき、キリストが地上で苦しみを味わわれたように、キリストの体としての教会も、苦しみや痛みや戦いを避けることはできません。それは教会にとって必然である、といってもよいでしょう。そのことから次に、苦難や試練についての肯定的・積極的な理解が出てくることになります。それが次の節です。
     
 13節では次のように勧められています。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい」。苦しみを喜べと言われています。普通、この二つは相反するものです。相互に否定し合うといってもよいでしょう。しかしその二つが、今結び付けられています。なぜそのことが可能となるのでしょうか。その理由も語られていますが、それを二つに分けて考えてみましょう。
 ひとつは、信仰ゆえの苦しみや試練は、キリストの苦しみにあずかることだ、という点です。「あずかる」とは、参与する、共有する、あるいは分かち合うという意味です。信仰者は、苦しみにおいて、キリスト御自身が味わわれた苦しみの一部を味わうものとされる、それによってキリストとの交わりに入れられる、ということです。これは信仰者にとって光栄あることです。なぜなら、苦しみの中にあるわたしたちに対して、主が「あなたの味わっている苦しみは、わたしが人として地上で生きたときに経験した苦しみの一部を共有しているのだ」と言ってくださっているからです。このことは逆に見れば、わたしたちの苦しみの中にキリストが入り込んでくださって、わたしたちの苦しみを分かち合ってくださっている、ということにもなります。信仰者は苦しみの中にたった一人で叩き込まれているのではないのです。
 もう一つのこととして終末的な希望の約束が示されています。「それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためである」とあるとおりです。キリストの栄光が現われるときとは、主が再び来られるとき、終末のときのことです。「万物の終わり」(4:7)のときのことです。「現れる」とは、おおわれていたものが、その覆いを取り除かれて、おもてに出てくることを言います。終わりのときには、キリストが死に打ち勝たれたその栄光と勝利とが、完全に明らかにされます。そのとき、地上において苦難に耐え、試練をくぐりぬけたものは、その栄光の中に加えられるのです。そのことが神によって約束されていることの中に、キリスト者は、希望を見出します。そしてその希望が、信仰者を今の苦しみに耐えさせ、喜びさえ与えるのです。
  (1月23日、主日礼拝説教より)
 

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