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今月のみ言葉  
「思い煩いを神に任せよ」      
  ペトロの手紙一 5章6−7節
           牧師 久野  
                                   「教会の声」説教原稿 (月号)

だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 ペトロの手紙の著者は、信仰者たちに「謙遜を身につけなさい」と勧めました(5:5)。神に対する謙遜とはどういう姿勢を言うのでしょうか。6節の「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」や、7節の「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という勧めが、そのことを表しています。
 なぜ神に何もかもお任せできるのでしょうか。その理由あるいは根拠として、6節では二つのことがあげられています。その一つは、神は力強い御手をもって受け止めてくださるから、ということです。 「神の力強い御手」という表現は、神の全能とか絶対的な力を言い表したものですが、聖書にしばしば記されています。旧約においては、特に、イスラエルの民をエジプトから救い出された神について語るときに、この表現がよく用いられます。「主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出された」(出エジプト13:9)などがその例です。また、新約においては、神の力は、イエス・キリストを死から復活させたことの中に端的に表されている、と述べています。次の句はその一例です。「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力を働かせて、キリストを死者の中から復活させ…」(エフェソ1:19−20)
 強大な敵に勝利する神の力、最後の敵である死をも克服する神の力を知ることによって、人は自分の小ささや無力さを覚えさせられます。それとともに、愛をもってこの力を発揮し、行使される神にすべてをゆだねてよいのだ、という思いも強くさせられます。その神の力強い御手の中に自分の困難や思い煩いをすべて投げ入れること、これが謙遜の姿です。
 もう一つ、信仰者が神の前でへりくだることを促される理由としてあげられているのが、「かの時には、高めていただけます」ということです。「かの時」、つまり終わりの時には、謙遜に生きた信仰者を神が身元にまで引上げてくださる、というのです。このことは、御子キリストにおいて起こりました。フィリピの信徒への手紙に次のように記されています(2章6節以下)。「(キリストは)へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と述べられたあとに、「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」と歌われています。死から命へ、屈辱から誉れへ、人々の排斥から神による受容へと、神は御子キリストを高められました。神へのへりくだりに生きた人を、神は御子と同じように取り扱ってくださるのです。信仰者は、そのことにこの世の喜びや勝利に勝るものを見出して、地上にあって傲り高ぶるのではなく、謙遜のうちに仕える道を行くことができます。以上二つのことの上に立って、信仰者は、すべての思い煩いを神にお任せしてよいと言われます。 
 
わたしたちにとっての思い煩いとは何でしょうか。精神的なもの、肉体的なもの、生活上のさまざまなこと、家族のこと、人間関係の問題、さらには世界大のこと等、あげればきりがありません。思い煩いとは、「心」という語と、「分割する」という語が組み合わさってできたものです。ある一つの事柄を巡って、どうすべきか、どうしたいのか、心が分かれてしまって、解決の糸口を見出せない状況に陥ることです。そのことの究極は、自分ですべてをやるか、それとも神に一切をお任せするかの二者択一にまで至ってしまいます。多くの人、いやほとんどの人が、このような心の分裂の状態を抱えている、と言って良いでしょう。
 聖書は、そのような思い煩いを捨てよと言っています。どこに捨てるのでしょうか。神に向けてです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と勧められています。この「思い煩い」は「自分の思い煩い」(口語訳)であり、「何もかも」です。どの分野のものであろうが、如何なる領域のものであろうが、神にゆだねてならないものはない、というのです。そのように考えて来ると、神にお任せすべきものは、自分自身であり、自分の存在そのものであることが分かります。
 聖書は、思い煩いからの解放の言葉に満ちています。「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」(詩編55:23)。苦しみと悩みと戦いの多い日々の中で、すべての思い煩いと重荷を神にゆだねることが許されています。主イエスもそのように教えてくださいました。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。…あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ6:25、32)
 任せるとは、本来、あるものを自分の手中から手放して、他のものの中に置く、という意味です。自分の心の中にある思い煩いを、そこから取り出して、神の手の中に投げ入れるのです。これは、消極的な生き方ではありません。これは神へのあつい信頼がなければできないことです。神を信じる勇気、神にお任せする信仰の大胆さがなければ生まれてこないものです。神の力強い御手の前で、自分の無力を知るものこそが、そうすることができます。そうであれば、思い煩いを神にゆだねないのは、まだ自分の力に固執しているということで、それは傲慢である、ということになるでしょう。
 7節ではさらに、神に思い煩いを任せることのできる根拠として、次のことが述べられています。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。神がわたしたちのことをすべてご存じであり、顧みてくださっていると言われます。神は、御手によって造り出された一人一人を、本人が自分を知る以上にご存じでいてくださいます。神は、御自分に属する者たちに、それぞれにふさわしく心を配ってくださり、必要な助けを差し出してくださるお方です。すべての計画をお持ちであり、すべての未来を支配される神が、それぞれにふさわしく御手を伸ばしてくださるのです。
 
それは、神がわたしたちに代わって思い煩ってくださることでもあります。だからわたしたちは、もはや思い煩う必要はありません。このことを信じるか否かに、わたしたちの生きる質と方向性の一切がかかっています。    (2月27日 主日礼拝説教より) 

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