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今月のみ言葉  
「あなたはわたしの愛する子」      
  マルコによる福音書1章9−13節
           牧師 久野           
                                   「教会の声」説教原稿 (月号)

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 主イエスが人々の前に現れて救い主としての働きを始める前に、洗礼者ヨハネが先駆者としての働きをしました。彼は「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と言って、救い主の現れを予告しました。またヨハネは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」を宣べ伝えていました。ヨハネによって予告された救い主はイエス・キリストでしたが、主は、まずヨハネのもとにやって来て、ヨハネから洗礼を受けられたのです。
 これらの一連の事柄になにか違和感を覚える方もおられることでしょう。なぜなら、ヨハネは、自分自身のことをやがて来る救い主の前で、「その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言っていたからです。さらには、主は「罪は犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練にあわれた」(ヘブライ4:15)と述べられているように、悔い改めを必要とする罪とは無縁のお方であられたからです。主イエスが洗礼を受けられたことに、どのような意義があるのでしょうか。
 一つは、主が御自分を罪人と同じ位置において、彼らの罪の問題に取り組もうとしておられる、ということです。そこに、主のへりくだりと、また罪人との連帯という一面が現わされています。もう一つは、主は、ヨハネから洗礼を受けることによって、彼の行っていた洗礼の行為を、あるいはその意義を肯定し、支持しておられる、ということです。主はまた、人が罪の認識から罪の告白、悔い改めに向かうこと、そして新しく生まれるための備えをすることの大切さを、人々に自ら示されたのです。こうしてヨハネから洗礼を受けられた主イエスの上に、「天が裂けて、“霊”が鳩のように降る」という現象が起こりました。さらに「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声も天から響きました。これから救い主としての働きをしようとしておられる主に、聖霊がくだり、神の保証と支えの声が響いています。
 わたしたちが洗礼を受けることは、主イエスの場合と全く同じというわけではありません。しかしなにか似たものがあるのではないでしょうか。主なる神は、洗礼を受ける者一人一人に対しても、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声をかけてくださっているのです。洗礼は、わたし自身の決断であると同時に、あるいはそれ以上に、神ご自身の決断です。神がわたしたちを、御自身の子として受け入れると決意されたことの表明です。それゆえ洗礼は、わたしたち人間の出来事であると同時に、神の国の出来事でもあるのです。
                          
 主は、洗礼を受けられた後、“霊”によって荒れ野へと送り出されました。そこにはサタン、野の獣、それに天使たちがいたことが記されています。サタンは誘惑するものとして登場しています。野獣はどういう意味を持っているのでしょうか。いくつかの解釈がありますが、ここでは、次のように考えてみましょう。「野獣と一緒におられた」という文は、「野獣の住むところにおられた」と訳すこともできます。その場合は、危険という要素が強く入ってきて、主は荒れ野でサタンの誘惑にさらされると同時に、野獣に襲われる危険にも囲まれていた、ということを告げていることになります。
 そうすると、主イエスは荒れ野という厳しい状況の中で、サタンという霊的な誘惑の力にさらされ、また野獣に象徴される身体と命の危険に囲まれて、40日を過ごされたということになります。それは人の生きる世界の端的な象徴です。
 しかし、世界はそれだけではありません。荒れ野で主に臨んだ悪しき、危険な存在をはさみ込むように、12節の始めには“霊”(聖霊)を見ることができますし、13節の終りには、天使たちを見ることができます。つまり、イエスは危険にさらされていましたが、同時に神の力に囲まれ、神の守りの中に置かれていたことが示されています。霊も天使たちも、神の力と守りを表したものなのです。
 わたしたちの日常生活も同じです。神に服従しようと生き始めたそのときから、わたしたちには、周囲からのさまざまな力が脅威として襲いかかってくることがあります。主に近づく者は、荒れ野に向かう者、新たな戦いに臨む者です。しかし、
神はそのような者たちを、ひとり放っておかれるお方ではありません。霊と天使たちによって、主イエスを守ってくださったように、神は、悪しき力に勝る力をもって、わたしたちを守ってくださるお方です。「あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださる」
(詩121:8)と歌われているとおり、神は弱いわたしたちに伴なってくださって、前から後ろから守ってくださるでしょうそこにわたしたちの力の源があります。
                                 (4月17日 主日礼拝説教より)

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