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今月のみ言葉  
「主によるいやし」      
   マルコによる福音書1章29−34節       
             牧師 久野           
                                   「教会の声」説教原稿 (月号)

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

主イエスは、安息日にユダヤ教の会堂で、教えといやしの業をされたあとに、シモン・ペトロの家に行かれました。シモンは、妻と妻の母(しゅうとめ)、それに弟アンデレと同じ家に住んでいたようです。その家でしゅうとめが熱を出して寝ていました。人々(おそらく家族)から、このしゅうとめの病のことを知らされた主は、自ら彼女のそばに近づき、彼女の手を取って起こされると、彼女を苦しめていた熱は去って、彼女はいやされました。その後、いやされたしゅうとめは、主の一行をもてなしています。これがシモンの家で起こった出来事です。
 ここにはいくつか考えるべきことがあります。その一つは、シモンとその家族の関係です。彼も他の弟子たちも、主の「わたしについて来なさい」との呼びかけに応えて、網や舟を捨て、また家族をも後に残して、イエスに従い始めています。彼らは、家族との関係をいったん断ち切ったのではないでしょうか。ところがシモンには、断ち切ったはずの家が、妻が、まだ彼のもとにあります。しかも古い世界に属するはずのところに、彼は主を連れてきています。これはどういうことでしょうか。
 ここにおいてわたしたちが見ることができるものは、シモンが主に従い始めることによって生じた、古い関係の中にあるものの変化です。そのことは特に彼と妻との関係に現れています。そんなに早く変化が起こるだろうか、といぶかしく思われるかもしれません。しかし、福音書が、時間をかなり凝縮して事柄を描いていると考えれば納得がいきます。シモンが主に従い始めることによって、彼の妻との関係がいったん断たれたはずです。しかし、断たれた関係の中に主イエスが介入してくださることによって、いったん断たれた関係が新しいものとして、再構築されるのです。事実、シモンはのちに、自分の妻を連れて伝道旅行に出かけたことが、聖書の記述から分かります(Tコリント9:5参照)
 信仰生活に入ること、あるいは主イエスへの服従に生きることは、過去との断絶を伴います。それは古いものとの決別を意味します。しかしそれは捨てっぱなしということではなく、そこには必ず主によって、新しい関係が生まれてきます。ペトロと彼の妻との関係もそうであったに違いありません。
 わたしたちが信仰者として生きようかどうしようかと迷うとき(それは洗礼を受けようかどうかを迷うときでもありますが)、その迷いの理由としては、家族のこと、家の宗教のこと、世間のことなどがあります。そのことを考えるとなかなか踏み切ることができないのです。それは当然の迷いでしょう。しかし聖書は教えています、それらの迷いや思い煩いは、主イエスが解決してくださる、と。問題は、何よりも、あなた自身が、主イエス・キリストに自分のすべてを委ねる決心をすることである、と。それができるとき、古いものとの関係の中に思いがけないことが始まるでしょう。
 もう一つここで考えさせられることは、シモンのしゅうとめの病が主によっていやされたことです。しゅうとめの病は、もちろん彼女自身の苦しみであり、痛みでありました。それと同時に、この家庭にも暗い影を落としていたかも知れません。そのような事情をすぐに察せられた主は、自ら進んでしゅうとめをいやしてくださいました。いやされなければならない人が自分から主に近づくことができないとき、主御自身がその人に近づいてくださるのです。それは、イザヤ書に描かれている苦難の僕の姿そのものです。「彼は…多くの痛みを負い、病を知っている。…彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(イザヤ53:3−4)
 こうして、同じ安息日に、ひとりは公的な会堂で、ひとりは私的な家で、主によっていやしを受けました。一つの共同体が、重い課題を抱え、いやされなければならない傷を負っているとき、あるいは混乱の状態にあるとき、主はそれをご存知になって、その重荷を取り去ったり、いやしを与えてくださるのです。そこに明るい希望の光を差し込んでくださいます。そのような主をわたしたちは身近なお方として、またわたしたちに憐れみをもって近づいてくださるお方として覚えることが許されています。その主を迎え入れるとき、何かが変わるはずです。
       
 いやされたシモンのしゅうとめはその後どうしたでしょうか。次のように記されています。「彼女は一同をもてなした」(31)。「もてなす」とは、「食卓で給仕する」とか「仕える」とも訳される語です。つまり彼女は、いやされたことへの感謝の応答として、主とその一行に仕えるものとなりました。いやされることによって、彼女は仕えることが可能となったのです。このことは何も取りたてて言うことではないのかもしれません。しかし、もっと深く考えてみると、ここから主によるいやしの意味が明らかになってきます。つまり、わたしたちが真に仕えるものとなるためには、主によって十分にいやされることが不可欠である、ということです。主のいやしを受けて、身も魂も慰められ、力づけられるとき、わたしたちは主と他者とに仕えるものとされるのです。主のいやしとは、わたしたちの罪の赦しであり、この世の悪しき霊からの解放であり、諸々の関係における和解です。
 この後、安息日が終わると多くの病める人や悪霊に取りつかれた人々が、主のもとに集まってきました。「人間はすべて、イエス・キリストのみ言葉による治療を受けようとして、主イエスのまわりに押し寄せる<病人>の如き者である」(トゥルナイゼン)。実にわたしたちは、心に、魂に、肉体に、あるいは家庭や人間関係に、そして教会においてさえ、痛みと苦悩と混乱を抱え持ったものたちです。そういった意味で、主によるいやしを必要としている病めるものたちであると言えます。さらには、これからもさまざまなことで傷つき、つまずき、倒れることがあるでしょう。
 そのとき、主に近づくことができるならば、また主が近づいてくださるならば、主はときに厳しく戒められることがあるかもしれませんが、それ以上にみ言葉と霊の力とをもって、いやし、助け起こしてくださるでしょう。そのようにしてわたしたちを混乱から回復させて、生きる姿勢を正し、新しくしてくださいます。この主によって、わたしたちは再出発をすることができるのです。
                                         (5月29日 主日礼拝説教より)

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