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今月のみ言葉  
「主イエスの祈りと宣教」      
 マルコによる福音書1章35−39節
           牧師 久野                                   
                                   「教会の声」説教原稿 (月号)

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「朝、早い時間、それは教会の時である」と述べた人がいます。それは主イエスが朝早い時に祈られたから、また主イエスが朝早い時に復活されたから、ということによります。朝早い時、それは信仰者にとって大切な時です。わたしたちの主イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、人里離れた所へ行って祈っておられます。主イエスはなぜ今祈っておられるのでしょうか。いくつかの理由を考えることができます。
 一つは、主は敬虔なユダヤ人の習慣にしたがって、朝毎の祈りをしておられるのだ、ということです。「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます」詩5:4と歌われているとおりです。朝早い時に神との間でいかなる対話をするかが、その日の質を決めることにもなります。主は、朝早く祈る方でした。
次に、この日朝早く主が祈っておられたのは、前日の安息日に起こったさまざまな出来事を神に報告し、そしてこれから主イエスがなすべきことを神に問うておられたのかも知れないということも大事なことです。み心のままに動こうとされる主の姿勢を表すのが、早朝の祈りということです。「この祈りによって、主イエスは、過度の多忙に陥ることからも、怠惰に陥ることからも守られた」(シュヴァイツァー ということでしょう。
主イエスが今祈っておられる所は、「人里離れた所」です。カファルナウムのシモンの家を出て、静かに祈りのできる場所に主は出て来ておられます。神との祈りにおける真剣な対話をするためには、ある種の逃亡が必要です。神のみ声を聞き取るために、人々の騒ぎや声から、一時期離れることも大事なことです。わたしたちにも、神への祈りに沈潜できる「人里はなれた所」が必要なのです。それを造り出さなければなりません。
そのように祈りの時を過ごしておられた主のもとに、弟子たちがやってきます。共に祈るためではなく、主イエスの祈りを中断するものとして。彼らは主に向かって咎めるように次のように言っています。「みんなが捜しています」。この言葉には、弟子たちの興奮が込められています。「わたしについて来なさい」と招かれてついて行った主が、いろんな人の病を癒して大きな成功を収めておられる、その主の評判が広まっている、そこから来る興奮です。また、それなのになぜ主は、人がいない所に行かれるのか、といった不満もあったに違いありません。
弟子たちの問題点は何でしょうか。それは、主イエスのお考えも知らずに、主の祈りを妨げていることです。彼らに必要なことは、主と共に祈ることでした。そして、主と共に神のみ心を問うことでした。弟子たちにはそれがなく、ただ自分たちの人間的な思いで主を支配しようとしています。彼らはまだ祈ることを知らないのです。主イエスに従うことにおいて大切なことは、神に祈りをすることを覚えることです。
主はこのような弟子たちに次のように言われました。「近くのほかの町や村へ行こう。…そのためにわたしは出て来たのである」。明らかに弟子たちとは異なる考えを主は持っておられます。それは、主は、神のみ心を聞き取られたからです。弟子たちには、多くの人々が集まってきている所を後にして、別のところへ移動するなどということは、もったいないことに思えました。しかし主は、今いるカファルナウムの人々はどうでもよい、と考えておられるのではありません。主は一つのところに留まっているのではなく、さらに多くの人々にみ言葉を伝えなければならない神からの使命があります。近隣の町や村への宣教も主にとっては緊急の課題でした。そのために他の町や村にも行こうと呼びかけておられるのです。
主と弟子たちの考えの違いはどこから生まれてくるのでしょうか。それを、「神の思い」と「人の思い」の違いと言い表すことができます。主は祈りによって、ご自分のなすべき神のみ心を捉えることができています。しかし弟子たちはまだ神に祈ることを知らず、ただ自分たちの考えだけで行動しようとしています。その違いが、ここに表れています。そのような弟子たちですが、主と共にいることによって、やがて神に祈ることができる者へと変えられていくことでしよう。 
主は、「そのためにわたしは出て来たのである」と語られました。これはどういう意味でしょうか。どこから出てきたことを言っておられるのでしょうか。この語は「人里離れた所へ出て行き」 (35)の「出て行く」と同じ語が用いられていますので、主がカファルナウムの家から出て来たことを言っておられるとも考えられます。しかしこれと同じことを記しているルカ福音書を参考までに見てみますと、「わたしはそのために遣わされたのだ」(ルカ4:43)となっています。つまり、そこでは神のもとからこの世界に出て来られたことの意味で、この「出て来た」が用いられていることが分かります。イエスは神のみもとにおられたのですが、すべての町や村に福音を宣べ伝えるために神のもとから出て来られました。だから一つのところに留まるのではなく、次の場所へと出て行かなければならないのです。そしてその業に、主はそれぞれの家から出て来た四人の弟子たちをも参加させようとしておられます。
弟子たちは漠然と主のそばにいるために家を出て来たのではありません。神のご計画にしたがって、主イエスと共に宣教の業に携わり、人々の罪の赦しと救いのために労苦をいとわない者となるために、家を出て来たのです。主はこうして、ご自分の使命とともに、弟子たちの使命をも明らかにしつつ、彼らの宣教の姿勢を確かなものにしていかれます。
ところでわたしたちもかつての古い世界、古い関係の中から出て来た者たちです。主イエスに服従するために、罪の赦しを受けて新しい命の約束のもとで生きるために、そして自分なりに福音宣教に仕える者となるために、わたしたちもかつていた所から出て来た者たちです。
それには抵抗が伴い、痛みやつらさが伴います。しかしそれらに耐える力を主から与えられつつ、この道を歩み始めています。しかしそこでは、新しい喜びや力や希望も与えられます。それゆえ再び元のところに戻ることがないように、主にしっかり結びついた歩みを貫きたいものです。そうすることによって、自らの救いの確信を強めるだけでなく、他の人々の救いのための器として、主によって用いられるものとされるでしょう。
             
  (6月12日 主日礼拝説教より)

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