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今月のみ言葉  
「安息日の主」      
 マルコによる福音書2章23−28節
             牧師 久野                                   
                                   「教会の声」説教原稿 (月号)

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。
ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。
アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある。」
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 安息日とは、ユダヤ教にとっては土曜日であり、その日は、他の六日と比べて特別な日として位置づけられていました。よく知られていますように、十戒の第四戒は、安息日に関する規定です。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。これは神が六日の間、天と地とそこにあるものを造られた後、七日目に休まれたからである、と聖書は教えています。神が休まれた七日目、それは人も安息を得る日として仕事を休むように、というのがこの戒めの内容です。この戒めをきちんと守るためには、「仕事をしない」とはどういうことか、あるいは「休む」とはどういうことかを明確に規定しておかなければなりません。そこでユダヤ人たち、特にファリサイ派の人や律法学者たちは、その規定をとても細かく設けました。イエス・キリストの時代の人々は、安息日の沢山の禁止項目に監視されながら生活していたのです。
 今日の聖書の箇所は、その安息日に起こった出来事を記しています。イエスが麦畑を通って行かれるとき、弟子たちが麦の穂を摘んで、それを手でもんで食べ始めました。それは弟子たちが空腹であったからです。ユダヤの国では、空腹時に他人の麦畑の麦を摘んで食べることは、許されていました。この国の律法の精神の一つは、憐れみです。そのことが、この麦を食べてもよいとの定めにも表れています。弟子たちは、律法違反をしている訳ではありません。
 しかし、そこに監視の目が光っていました。弟子たちの行為を見ていたファリサイ派の人々が、弟子たちは安息日にしてはならないことをしている、と主イエスに抗議しています。弟子たちが麦の穂を摘むことは、刈り入れの労働をしたことであり、穂をもむことは脱穀の作業をしたことになる、というのがその理由です。今日のわたしたちにとってはなんともばかばかしく思えることですが、ファリサイ派の人々は大真面目であり、主イエスを陥れるためにはどんなことも見逃さない、という彼らの姿勢がよく表されています。
         ☆
この抗議に主イエスはどのようにお応えになったでしょうか。ここで主イエスは、旧約聖書の中の一つの出来事を引用されます。それはサムエル記21章1−6節に記されているもので、およそ次のような内容です。サウル王の時代、ダビデはサウルに追われて逃げる途中、ノブの町の幕屋に入りました。ダビデは祭司に、お腹を空かせた供の者たちのためにパンを求めました。祭司はあいにく余分のパンを持ち合わせていなかったために、ちょうどその日、祭壇からさげる予定であった古いパンを提供しました。実は、このようなパンは、祭司だけが食べることが許されていたものでした。しかし祭司は、空腹の者たちを見捨てることはせずに、規定違反を犯したのです。この行為は聖書の中で別に咎められてはいません。主イエスはそのことにファリサイ派の人々の目を向けさせます。つまり祭壇のパンを祭司以外の者が食することは規定違反である、しかし空腹の者に憐れみを示すことは、戒めの精神に即しているということです。 
 主イエスがここで旧約聖書のこの出来事を引用された最大の目的は、律法や戒めには細かい規定があるが、人の命が守られ、人が生かされるためには、その規定が破られることもある、ということを示すためです。つまり、律法に対する自由を主は教えておられるのです。律法は、本来人に仕えるもの、人を生かすものです。それゆえ細かい規定が、現に生きている人間、しかも困難と弱さの中にある人間に仕える働きをするものでない場合は、それは破られてもよい、という考えが主にはあったのです。それに対してファリサイ派の人々の律法に対する考え方は、柔軟さも自由さも失った形骸化したものとなっていて、人を生かすことに仕えるものではなくなっていました。それゆえ、彼らの宗教は非人間化したものになっていたのです。優先すべきは、人が細かく作り上げた規定ではなく、神が造られた人間とその命なのです。その点から見ると、安息日の細かい規定は、人間を生かすものではなく殺すものとして作用しているのではないか、と主はファリサイ派の人々に指摘しておられます。「あなたがたが主張していることは、安息日を聖とせよとの戒めの本来の精神から遠く外れている」ということです。
       ☆
主は、さらに二つのことを述べることによって、安息日の理解を深めさせようとしておられます。一つは、「安息日は、人のために定められたのであって、人が安息日のためにあるのではない」ということです。つまり、安息日は、人のために神によって造られたもの、制定されたものです。それは裏を返せば、安息日の細かい規定を守るために人が存在するのではない、人は安息日の奴隷ではない、ということになるでしょう。ファリサイ派の人々の考えは、安息日規定が先にあって、人はそれを守るために存在している、というようなものです。神が七日目に休まれたのは、その日には人もまた安息を得るためです。それは神の恵みを受ける日です。「〜してはならない」ということよりも、「神の前にあって真の安息を得よ」という積極性がその戒めには含まれています。そしてその日に、神の前に礼拝をささげることが、最もよく神の恵みと安息に与ることになる、ということを敬虔なユダヤの人々は理解するようになったのです。労働や仕事を休んで、ただ漠然と一日を過ごすのが、安息日のよい過ごし方なのではなく、神への礼拝の日としてその日を守ることを最もよい過ごし方であると、キリスト者も神から示されています。
主が教えられたもう一つのことは、「人の子は安息日の主でもある」ということです。「人の子」とは、主イエスのことです。人の子イエスは、また神の子でもあられます。このお方が安息日の主であるということは、安息日のあり方を決められるのは、主イエスであられるということです。主は、金曜日に十字架の上で死に、週の初めの日、すなわち日曜日に死から復活されました。その日は、従って、主の復活の命に触れる日です。礼拝において、み言葉をとおして、また聖晩餐をとおして、主の命にあずかり、その恵みを喜ぶことへと、わたしたちは招ねかれています。安息日に魂と体とに憩いが与えられ、一週間を生き抜く力を得る、それは礼拝において、復活の主に出会うことによって起こります。安息日の主が、わたしたちの一週間の歩みの主ともなってくださるのです。
                                        (7月31日 主日礼拝説教より)

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