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今月のみ言葉  
 
「聞く耳のある者は聞きなさい」      
 マルコによる福音書4章21−25節
           牧師 久野                                   
                                  「教会の声」説教原稿 (10月号)
                                   

 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
 聞く耳のある者は聞きなさい。」
また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

相手の話をいかに聞くかということは、極めて大切なことです。主イエスは神の言葉を聞くことについて、格言に近い短いたとえで弟子たちに教えられました。それが21−25節に記されている四つの教えです。その一つ一つについて、重要な点を考えてみましょう。
21節はともし火に関するものです。人がともし火を持ってくる場合、何かの下に隠すためではなくて、全体を照らすためです。そのために、あらゆるものを照らし出す位置にそのともし火は置かれます。このたとえ自体は難しい内容ではありません。大事なことは、このともし火が何を指しているのか、そしてそれを燭台の上に掲げるとはどういうことかです。ともし火とは、「神の国についての教え」、あるいはそれを人々に聞かせられる主イエスの人格と言ってよいでしょう。神の国についての教え、すなわち福音は、隠されるものではなくて、人々の前に高く掲げられなければなりません。また、主イエス・キリストも隠される方として現れたのではなくて、人々の前に輝く光として現れました。この光を人々の前に輝き出させること、この福音を多くの人々に響かせること、それがこのたとえを聞く弟子たちの務めです。主はそのことを弟子たちに自覚させようとしておられます。さらに必ずそのようになるとの主の約束も込められています。
二番目のたとえは22節です。これも第一のものと内容的には同じです。神の国の教えは、今はまだ多くの人に伝えられてはいませんし、またそれを聞いた人々によって正しく理解されている訳でもありません。しかし、隠されているもの、秘められているものが必ず表に現れ出る時が来る、と主は語られます。人々の無理解や敵意のゆえに、神の国の真理は熱いヴェールで覆われることがあります。しかし、それで終わるのではなく、いつかそのヴェールが取り除かれる時が来ます。ここにも主の約束があります。
第三のたとえは、24節の後半に記されています。「自分の量る秤で量り与えられる」とはどういうことでしょうか。これは端的にその人の聞く姿勢、神の言葉と向き合う心の姿勢のことを言っていると考えてよいでしょう。もしその人がみ言葉に対する自分なりの尺度を持っていて、それによって量りながら聞くと、その尺度に合ったものしか聞き取ることができません。「み言葉はこうあるべきだ」という前提がある場合、それに適ったものしか聞きとることができません。その姿勢が強い時、それは福音を縮少したり歪曲したりすることにつながります。ひいてはそれは、神のあり方をその人が規定することにもなってしまいます。しかし、逆に、何の尺度も前提もなく、からの心でみ言葉と向き合い、神から教えられようとする素直な姿勢を持つ時、その人は豊かな恵みと賜物とを受け取ることになるでしょう。「更にたくさん与えられる」という言葉によって、そのような人たちに対する祝福の約束がなされています。勿論わたしたちは、問いや求めをもって神と向き合うことはあってよいし、それは大事な姿勢です。しかしそれは、人間の側がみ言葉の内容を規制したり枠づけすることとは違います。主なる神は次のように告げられました。「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたがたの道とは異なる」(イザヤ55:8)。わたしたちの思いを超えた神の御心を捉えるには、素直さと熱心という秤が大切なのです。
 第四のたとえは、25節です。先に述べられたような、神の教えに対するふさわしい秤を持っている者は、より豊かに与えられ、それを持っていない者は、わずかしか受け取ることができない、いや何も受け取ることができないこともある、というのがこのたとえの主旨です。これは警告を含んでいますが、同時に謙りを持ってみ言葉に向き合う者に対しての祝福の約束があることに気づかされます。
                           ☆
 このように四つの短いたとえは、それぞれ聞くことに関する警告とともに、約束が伴っているものです。そのことは二組のたとえの前後に次の言葉があることからも分かります。「聞く耳のある者は聞きなさい」(23)、「何を聞いているかに注意しなさい」(24)。神の国の教えをよく聞き、正しく聞く時、そこに神ご自身の力も働いて、神の国の秘密がその人の内に明らかにされてくるのです。
 神の言葉には、その背後に神の存在があります。主イエスの言葉には、主の人格と命が伴っています。そうであるならば、それを聞くわたしたちも自分の全人格を傾け、
 全存在を投げかけて神と向き合い、主イエスに対面しなければなりません。わたしたちのそのような聞く姿勢、神と向き合う姿勢を、主はこれらのたとえを通して教えておられます。
                                   (10月9日主日礼拝説教より)    

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