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「なぜ怖がるのか」      
 マルコによる福音書4章35−41節
           牧師 久野                                   
                                  「教会の声」説教原稿 (11月号)
                                   

 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

主イエスは、ガリラヤ湖の周辺で夕刻まで神の国について語られたあと、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちを促して舟を出されました。その途中で主と弟子たちの乗った舟は大きな嵐にあいました。この舟は、しばしば教会を象徴しているものとして受け止められてきました。
舟には主イエスがおられ、弟子たちが共にそれに乗っています。そして舟が激しい嵐にあい、弟子たちがあわてふためいている中で、主イエスが共にいてくださることによって、嵐が静まり、舟も弟子たちも無事に危機を乗り越えることができました。この状況が教会の状況に似ているということでしょう。確かにそのとおりです。また教会だけでなく、信仰者個人としても、しばしば嵐に襲われるわたしたちです。そのとき何によって危機を乗り越えることができるかということについての力強い示唆がここにあることを、読み取ることができるでしょう。
弟子たちが向こう岸に渡ろうとしているガリラヤ湖は、いくつもの山に囲まれた地形上の理由によって、突風が起こることがときどきありました。これは思いがけないことが生じているのではなくて、起こり得る可能性の中のことが、今起こっているということです。
教会にもこのようなことは起こり得ます。教会は、教会にいつも敵対している訳でもないこの世から、激しい憎悪の眼を向けられることがあります。教会の信じていることが、この世の価値観や論理に合わないとされたとき、この世は激しく教会に攻撃を加えることがあります。それは思いがけないことではなくて、この世になお勢力を持っているサタンの力によるものなのです。二千年にわたる教会の歴史は、そのような事実をはっきり証明しています。
しかし、主イエスはそのような世界に、舟を漕ぎ出されます。つまり、主イエスがかしらであられる教会を建てられるのです。この世の危機や危険の力にも勝る力を持っておられる主が、自ら主導権をもって「そこに漕ぎ出そう」と先頭に立って進んでくださいます。わたしたちは、この世に隠れている危険性を見るとともに、もっと確かな眼差しを持って、この力に満ちた主を見つめるべきなのです。
またもう一つ考えておくべきは、わたしたちは主に従うことによって、何の危危険も戦いもなく、嵐にあうこともない世界に移されるのではない、ということです。主に従い始めても、相変わらず困難と戦いと労苦は付きまといます。しかしそこで大事なことは、わたしたちが主に従うことによってすべての嵐から免れるものとなるのではなく、嵐にあっても沈むことのないものとされるということです。主が共にいてくださる教会の一員とされることは、全く嵐のない無風状態に移されるのではなく、嵐や困難にあっても、主によって倒れないように支えられるものとされる、ということなのです。
わたしたちもそれぞれの信仰者としての歩みにおいて様々な嵐がありました。今にも沈みそうな危機の状態に叩き込まれることもありました。あるいはこれからも同じようであるかも知れません。しかしその中で主によって支えられるという信仰者に与えられる恵みの現実があります。「『足がよろめく』とわたしが言ったとき、主よ、あなたの慈しみが支えてくれました」(詩94:18。そのことが約束されている者、それが主と共にこの世に船出した信仰者とその教会です。
さて激しい嵐の中で弟子たちはどのように振舞ったでしょうか。彼らは必死に舟が沈まないように努力しました。しかし、それにもかかわらず舟が沈みそうになったとき、一人何もせずに船尾の方で眠っておられる主イエスに気がつき、すぐに主を起こします。眠っておられる主の姿は、弟子たちを安心させるものではなく、かえって彼らの不満と憤りを呼び起こしています。それは教会の危機の中で、またわたしたちの日々の苦悩の中で、わたしたちがしばしば感じることと同じです。「この危機の中で、主はどこにおられるのか」「わたしたちの困難に主は関心をお持ちにならないのだろうか」と愚痴をこぼし、主への不満をあらわにします。しかし嵐の中での主の姿は、わたしたちの目には、主が何もしておられないようにしか見えないとしても、共にいてくださる主、最もふさわしく働いてくださる主を明らかに示しています。
主は弟子たちの問いかけに目を覚まして、まず風と湖を静められます。「黙れ。静まれ」。すると風はやみ、湖はすっかり凪になりました。わたしたちは、この主イエスの姿の中に、自然をも支配される力の持ち主としての主、語られた言葉の内容をそのまま現実の出来事とする力を持たれた主を見出します。さらにそれによって主は、荒ぶる弟子たちの心をも静めてくださっています。
主は、弟子たちに向かって、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけ語りかけておられます。弟子たちが恐怖の中で主イエスを起こしたことに対して、「彼らはまだわたしを信じていない」と言っておられるのです。確かに、弟子たちは主を信じて叫びをあげたのではありません。主は彼らの心を見抜いておられます。しかし、それによって主は弟子たちを見捨てたり、彼らを諦めたりはしておられません。嵐の音には目を覚ますことのなかった主が、弟子たちの叫びには目をさまして、必要な助けを与えてくださっています。この事実はとても重いものがあります。主はわたしたちの叫びを聞いてくださるお方なのです。
こうして弟子たちの力が尽きたところで、主の力が現れました。人間の力が尽きるところで、神の力が働き始めます。というより、その前から神の力は隠された形で働いていたのですが、わたしたち人間がまだ自分の力で何とかなると考えていたために、そこで働いておられる神ご自身が見えなくなっていたということでしょう。しかしもはや自分たちの力ではどうすることもできないという追いつめられた状態に陥ったとき、わたしたちは薄い信仰のまま主に訴え始めます。主はそのようなわたしたちの弱さを指摘しつつ、必要な助けを与えてくださるのです。そのお方が、教会のかしらであり、またわたしたち一人一人にとっての主であられます。
「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」ヨブ38:11)と波を押し留められる主が、わたしたちの唯一の主です。このお方によって、わたしたちは嵐を突き抜けて真の凪を与えられるのです。
                                  11月6日 主日礼拝説教より)   

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