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今月のみ言葉  
 
「神はわれわれと共に」      
マタイによる福音書1章18−25節
           牧師久野                                  
                                  「教会の声」説教原稿 (12月号)
                                   

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 クリスマスは、神の御子イエス・キリストのこの世への誕生を記念し、祝う教会の行事です。誕生という限りは一般的に言って、その子の両親、誕生の時や場所や状況などが当然話題となります。ところがイエス・キリストの誕生に関しては、最も大切な点がすでに謎に包まれています。それはおとめマリアの胎内に宿った子は聖霊によるものである、と聖書が告げているからです。これは後に論議の多い「処女降誕」というキリスト教の重要な教理となるものです。これは一体何を言おうとしているのでしょうか。
聖書は確かに主の天使の言葉として、マリアの胎内に宿ったのは聖霊によるものである、と告げています。ここにおける聖書の関心は、マリアの妊娠の生物学的・医学的な過程ではありません。その中心は、神の子イエスのこの世への誕生やその存在に関して、神が驚くべき仕方で関与されたということの告白にあります。別の言葉で言えば、御子イエスの地上への到来は、人間的な力の働きによるのではなく、神の力が優先的に働いたということです。そのことを明らかにするために、聖書はおとめマリアが夫ヨセフとの関係なしに、聖霊によって子を宿した、と言っているのです。これは、生物学的に極め尽くすことのできない謎、信仰の言葉で言えば、秘義・奥義です。そのことを告げることによって、「主イエスは、神から遣わされた救い主である」との告白がなされているのです。
さてわたしたちがこのマリアの懐妊に困惑する以前に、あるいはそれ以上に、これに困惑した人物がいました。それはマリアの夫であるヨセフです。彼は婚約相手のマリアの胎内に子が宿っていることを何らかの方法で知らされました。その子が自分の子でないことは、ヨセフに分かっていました。そこに彼の激しい苦悩、葛藤、内面における戦いが生じることになります。それゆえに、御子イエスの誕生物語は、マリアの夫ヨセフの試練の物語と言われることがあります。
ユダヤでは、婚約した者同士は、法的に夫婦とみなされていました。そのために、婚約中の女性が婚約者以外の男性と関係を持つことは、すでに姦淫の罪を犯したことになり、その女性は、石打ちの刑に処せられることが定められていました(申命記22:23−24)。
 夫ヨセフは「正しい人」でした(マタイ1:19)。「正しい」とは神の定めである律法に忠実であるということです。マリアは、律法の定めに従えば、石打ちの刑に処せられるということを、ヨセフはまず考えたに違いありません。しかし「正しい」というのは、それだけではないのではないでしょうか。神の律法の精神、その根幹をなすものは「愛」であることも彼は知っていました。その愛に従ってマリアにどう向き合ったらよいか、ということも彼を苦しめました。律法を文字どおりに適用すべきか、それとも愛の道として他になにかあるのか、その狭間でヨセフは悩んでいます。
彼が選ぶことができる道は、次の三つの中の一つです。第一は、マリアの胎内の子が誰であるか分からないままに、彼女を妻として迎え入れて正式に結婚する道です。第二に、マリアの胎内の子が誰の子であるかを明らかにしないまま、あるいは彼女の妊娠の事実を隠したまま、彼女と離縁することです。第三の道は、律法にきびしく従うことであり、この場合はマリアを姦淫の罪を犯した者として告発することになります。ヨセフは、初めは「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心」(1:19)しました。しかしそれですべてがうまくいく訳ではありません。なぜなら縁を切られたマリアは今後どう生きて行けばよいのか、やがて生まれる子を彼女はどのように育てたらよいのか、という大きな問題が残ります。マリアも悩み、ヨセフも悩む。御子の誕生の出来事には、若い魂の苦悩が伴っていました。
その苦悩の極まるところで、神は悩める魂と出会ってくださいます。思い悩むヨセフに天使が現れて、マリアの妊娠は聖霊によるものである、その命は神の特別な働きによって宿ったものである、ということを告げます。これによってヨセフの疑惑は払拭されて、彼は神の言葉に従ってマリアを受け入れました。
 
わたしたちはヨセフに起こったことを見ながら、大切なことを教えられます。それはわたしたちの魂の苦悩の極まるところに、神は介入してくださり、その苦悩を取り除いてくださるということです。闇が暗ければ暗いほど,神はご自身の光を持ってそこに臨んでくださいます。苦悩の場は、神との出会いの場とされるのです。クリスマスを迎えるわたしたちにも、喜びとともに、いくばくかの不安や恐れや苦悩があることでしょう。神のなさることが分からないという疑いもあるでしょう。しかしそのようなわたしたちが全存在をもって神の前に立ち続けようとするとき、神は「恐れることはない」とのみ言葉をもって、わたしたちのそれぞれの状況の中に立ち入り、平安と希望を与えてくださいます。
主の天使がヨセフに告げた言葉の中に、「その名はインマヌエル」というのがあります。それは、「神は我々と共におられる」という意味であることが続いて述べられています。これはイザヤ書7章14節に基づいたものです。神が送られる救い主は、そのお方をとおして、神がわたしたち人間と共にいてくださることのしるしとなるというのです。イエス・キリストにおいてこそ、神が人間の世界に入って来てくださり、そしてわたしたちのもとに留まることによって、わたしたちを神のもとに連れ戻す働きをしてくださるということが、この「インマヌエル」には含まれています。
罪とは、人が神と人との間に生じさせた隔たりとして考えることができます。その隔たりを人間の側から埋めることはできません。そこに神は御子を送ってくださって、その隔たりを埋めようとしてくださるのです。それはわたしたち人間をご自身のものとして回復させるためです。その神の業の見える形での始まりが御子の派遣であり、それがクリスマスの出来事の本質を作り上げています。
 わたしたちの感覚では神が共にいてくださるとは到底思えないときにも、神が共にいてくださるという御子の誕生に始まった事実は変わらなく続いています。この約束とは異なるとしか思えない現実が目の前にあったとしても、インマヌエルなる神を信じる信仰に生きるとき、そこに必ず恵みがもたらされる、それがキリスト者に与えられた約束なのです。
                                  12月 主日礼拝説教より  

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