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   「救いの目的」
エフェソの信徒への手紙2110
       伝道師 粂 広国
                              
                                    「教会の声」説教原稿 (月号)
                                   

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。
 こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

エフェソの信徒への手紙2110節は、大きく3つに分けることができます。
第一は、
13節に記されている事柄です。人は誰でも生まれながら罪と過ちのために霊的に死んだ状態にあります。この世の力によって人間が支配され神でないものを拝み、神の怒りを受けるべき者だったという事実です。第二は、46節に記されている事柄です。神は罪に死んでいた人間を愛して、恵みによりキリストと共に生かし、復活させ、天にまで引き上げて下さったという事実です。「共に」という言葉がこの三つの言葉に伴っています。人間の救いとはイエス・キリストによる以外にありえないことを表しています。第三は、710節の事柄です。キリストによる神の恵みのわざの目的が記されています。それは、神が前もって準備しておられた良いわざのためです。救われた者は、どのように生きるのか。また何のために神は人を救いへと導くのかという問題について語られています。
 この
2110節の三部構成は、実はハイデルベルグ信仰問答の構成と似ています。ハイデルベルグ信仰問答とは、キリスト教の教理を分かりやすく教えるもので改革教会の信仰の教育に欠かせないものです。この信仰問答も三部構成となっています。これは129の問答で構成されているのですが、それが問111、問1285、問い86129の三部に分かれているのです。第一部は、「人間の惨めさについて」で、人間の罪と悲惨がいかに大きいかについて認識させられます。第二部は、「人間の救いについて」で、人間がどのようにして、その罪と悲惨から救われるかが教えられています。そして第三部は、「感謝について」で、救われた人間がどのようにして神に感謝すべきかについて語られています。今取り上げる710節は、ハイデルベルク信仰問答の第三部「感謝について」に対応しているということができます。
 
246節で、わたしたちの救いが神の恵みによるによることが強調されましたが、それは8節で再び強調されています。救いは「信仰」によるのであって、「自分に力」によらないのです。救いは全く神の賜物であります。これほど強調される理由は、この原理が信仰の土台をなすからです。土台に欠陥がある建物には、崩壊の危険をあります。救いのわざが、全く人間の功績によらず神の恵みによるという信仰を少しでもおろそかにするならば、教会そのものが倒壊する危険が生じるのです。それほど重要な原理です。
そしてこの告白を土台として、実は救われた後の信仰者の生き方も建てられるのです。
救いが神の賜物であるということと救いによって新しくされた人間が神の作品だということとは、深い関わりがあります。キリスト者とは、神の新しい創造という点で、神の作品なのです。しかも、救いという新たな創造は、神によって前もって準備されていたことなのです。神は、思いつきで人を選ばれたのではなく、神の作品として、良いわざのために、「キリストにあって」予め準備しておられたというのです。エフェソの信徒への手紙
145 節の言葉がそれを裏づけています。即ち「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」。神の選び・召し・愛という行為が先行しているのです。私たちは神が良しとされた時にキリストを通して神を知り、キリストを救い主と信じる信仰によって救われるのです。神がいつどのように私たちとキリストを結び付けたかは一人一人異なります。しかし機会や手段は異なっていても気付くことは、救いが自分によって起った事柄ではなく、神の方から、その人にふさわしい時に、ふさわしい仕方でもって、御子キリストと出合わせてくださったという事実です。
さらに驚くべきことには、救いの目的が「良いわざ」のためにあるということです。
キリスト者は、良いわざのためにキリスト・イエスにおいて作られたということです。
 人間が救われるのは、神の恵みにより信仰による。では、救われた後の「良いわざ」というのは、その人次第かというとそうではないのです。救いの時だけでなく救われた後の生き方においても、人間は、キリストによらなければ、良きわざをすることはできないのです。神は、救うまではキリストによるとしながら、人が救われたあとは、勝手気まま自由にやりなさいと突き放す方ではありません。それでは、神の作品として作り上げることにならないからです。神は作品として完成させるために、救われた後はより一層キリストとの結びつきを強めてくださる方なのです。救いとは、キリストのものとされることです。人間は神から離れて良いわざをなすことは不可能です。良いわざも、キリストに結び付けられて初めて実を結ぶものなのです。イエスが、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分で身を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」と言われたとおりなのです。
 キリストにつながっているということは、キリストの体である教会につながっているということです。救いは、教会がなければありえず、キリストのものとされることは、教会に属する者となるということです。良いわざも教会を離れては成しえないのです。良いわざとは一言で言えば、「キリストに倣う」ということです。神の義と神の愛とを全うされたキリストに倣うことこそ、神の恵みの選びである救いの目的なのです。
キリストは、ご自分の血で私たちを贖ってくださり、聖霊によって、私たちをご自身の似姿へと回復してくださいました。それゆえ私たちは善い行いに励むのです。その理由は三つあります。一つは、私たちの生活の全てで、神の恩恵に感謝を明らかにするためです。そのようにして、神は、私たちによって讃美されるのです。二つは、私たちが、この実りによって自分の信仰を自ら確信するためです。そして三つ目は、神に向かって生きる自分の生活によって、他の人々がキリストに達するためなのです。

 1月8日 主日礼拝説教より 

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