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今月のみ言葉  
 
   「主イエスのいたわり」      
      マルコによる福音書6章30−44節      
           牧師 久野 牧                                                                
                                    「教会の声」説教原稿 (3月号)
                                   

 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 キリスト教は招きの宗教である、と語った人がいます。「わたしのもとに来なさい」という神の招きの言葉、主イエスの招きの言葉が、聖書において響きわたっています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)という主の言葉は、なんと慰めに満ちていることでしょうか。
またキリスト教は、派遣の宗教でもあると言うこともできます。主イエスのもとに招かれた者は、次には主から遣わされる者となるのです。弟子たちにはそのことが既に起こりました。彼らは、主から遣わされて宣教の働きをして、再び主のもとに戻ってきました。そして彼らは、「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」のです。その報告は、決して事務的・機械的なものではなかったでしょう。初めての宣教において起こったことを、興奮して、感謝して、また心の痛みを伴いながら、報告したのではないでしょうか。その様子を思い描くだけで、わたしたちも興奮を覚えます。
弟子たちがそうすることができたのは、聴いてくださる方がおられるからです。派遣された方は、また御自身が遣わした者たちの言葉に耳を傾けてくださる方でもあります。わたしたちにとってもそれは同じです。礼拝の場へと招かれ、そこから遣わされた者は、再び主の前に戻ってきて、主にすべてを報告します。そしてそれについての主の言葉を新しく受けて、わたしたちは生活の場へと赴きます。その繰り返し、積み重ねの中で、わたしたちの生は営まれていきます。
弟子たちの報告の内容は、彼らが「行ったこと」と「教えたこと」です。「行ったこと」とは、彼らに託された権能と関係があります。彼らには、「汚れた霊に対する権能」が授けられました(6・7)。それは病める人、悪霊にとりつかれた人の癒しのことです。弟子たちは、そのことにおいてうまくいったことや失敗に終わったことを報告したのでしょう。また「教えたこと」とは、神の国の接近の告知と悔い改めを促すことを内容としていたと考えられます。それも喜びと悲しみの双方が含まれていたことでしょう。
さて、弟子たちの報告を聴かれた主イエスはどうなさったでしょうか。次のように言われました。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休休むがよい」。主は、初めての宣教活動で身も心も疲れていたであろう弟子たちに、休むことを命じておられます。彼らの周りには、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったということも、理由としてあげられています(31)。主は弟子たちに心くばりをしておられます。
しかし、人里離れた所へ行くのは、単に休息のためだけではなかったはずです。それは「人里離れた所」という語が示唆していることを考えることによって分かります。既にこの語は主イエスに関して用いられていました。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(1・35)。つまり人里離れた所とは、主イエスにとっては神への祈りの場であり、神との語らいの場であったのです。主イエスは、弟子たちにもそこへ行くことを命じておられます。すなわち、祈りの場へと彼らを送り出しておられるのです。弟子たちが、自分たちのことを神に報告し、神に祈り、神に訴えることによって、神からの新しい示しや力を受けることを期待しておられるのです。 
 わたしたちに対しても、主は同じいたわりを示してくださいます。主は、わたしたちに対しても「休むがよい」と言ってくださいます。疲れているときに、力を回復するために休息を与えてくださいます。傷ついたとき、病んでいるときには、癒しのための休息を与えてくださいます。混乱し、心が乱れているときには、心の整理と進むべき新しい道の発見のために、一時手を休めることを許してくださいます。わたしたちも、「人里離れた所」に行くことが必要なのです。
そのようにして、主の配慮のもとで弟子たちは、今いる所から別のところへ舟で移動することになりました。ところがそれを見ていた多くの人々が陸路によって一行を追いかけ、先回りして、主イエスの一行が舟を降りる場所で待っていたのです。弟子たちにとっては、人里離れた所が、そうではなくなってしまいました。そのとき主イエスと弟子たちは、どのようにこの人々に対応したでしょうか。先に弟子たちに注目してみますと、彼らは「人々を解散させてください」とか、「わたしたちが彼らのためにパンを買いに行くのですか」と言っています。弟子たちは、明らかに人々に苛立ちを覚え、邪魔だと思い、早く帰って欲しいと考えています。弟子たちは、ここに休みに来たのですから、彼らの気持がわたしたちに分からない訳ではありません。
一方主はどうだったでしょうか。弟子たちとは違っていました。主は彼らを御覧になって「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」、心を動かされます。羊は、弱い動物です。羊飼いがいないと行き先を間違ってしまい、餌や水を確保することができないことがあります。敵から自分たちを守ることもできません。飼う者がいない羊は、生存の危機にさらされているのも同然です。主は、目の前にいる人々をそのような者と見て、心の底から憐れに思われました。そしてみ言葉によって慰め、励まし、神の恵みを明らかに示されたのです。
これらの人々には、何かを求める問いはあっても答えはありません。欠乏や困窮はあっても、助けはありません。不安はあっても、そこからの解放はありません。涙は流れても、それをぬぐってくれる人がいないのです。罪を犯しても、赦しは示されません。そのように傷つき、恐れ、おののいている民の姿のみが主の目に映るのです。その人々を、主は冷たく突き放すことはなさいません。
 深い傷にこそ癒しが必要です。迷っている者にこそ、行き先を示す光が必要です。主は御自身を求めてやってきた人々に、いろいろと教え始めておられます。それによって彼らが自分自身を知り、神と出会い、新しく生きることができるようにと仕えてくださっています。この主の姿は、教会がいつの時代においても取り組むべきことが何であるかを指し示しています。わたしたちの教会も、主イエスの憐れみを言葉をもって人々に差し出しつつ、また現実に人々が必要としているものをも差し出すことのできる教会を目指して行きたいものです。
                                2月26日 主日礼拝説教より

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