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今月のみ言葉  
 
 「神はわたしたちの味方」      
ローマの信徒への手紙8章3−39節   
           牧師" 久野 牧                                  
                                  「教会の声」説教原稿(4月号)
                                   

 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

わたしたちは、複雑な諸々の関係の中で生きています。人間関係だけでなく、種々のこの世的力や宇宙的力に取り囲まれて生きています。それらのいくつかが、わたしたちにとって“敵”として働きかけることがあります。そして誰もが、自分を脅かすいろんな意味での“敵”に囲まれています。自分の生涯を振り返って見て、よくここまで生きてこられたなという思いを抱くことも、わたしたちにとって珍しいことではありません。それほどに、ひとりの人間の命や生存に敵対する力は、わたしたちの周囲にあふれるほど存在しているのです。
 そのようなわたしたちに、今一つの力強い宣言が響いてきます。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」というものです。他のすべてのものがわたしから離れ去り、目をそむけ、敵対するようなことがあっても、神はわたしたち一人ひとりのために存在してくださるということ、それがわたしたちの味方であるということです。これを信じぬくことが真実の信仰です。
 ところで、神がわたしたちの味方であってくださるということを、何によって知ることができるのでしょうか。ここでパウロは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」という事実をもって、神が味方であることの確かなしるしとして語っています。神がひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされた出来事の中に、神がわたしたちのために存在していてくださること、つまり神がわたしたちの味方であることの端的な証拠がある、というのです。
 相手に対する愛や慈しみの表現の方法は、いろいろあるでしょうが、その最大のものは、自分にとっての最愛のもの、かけがえのないものを相手に差し出すことでしょう。神にとっての最愛のものとは、ひとり子イエス・キリストです。神は、そのひとり子をわたしたちの罪の世界に送ってくださいました。そこに神がわたしたちの味方であることの最大のしるしがあります。
そのことについて語る31節以下のパウロの語調は、きわめて迫力に満ちています。しかしそれは、パウロ自身の迫力というよりも、パウロが語る内容である神の愛そのものが、迫力をもってわたしたちに迫ってきているというべきでしょう。そのような愛の神がわたしたちの味方でいてくださることは、わたしたち人間が勝手に決めたことではなく、神がわたしたちのために造りだしてくださった現実なのです。
 しかしなぜ御子イエス・キリストがこの世に遣わされたことが、神の愛の現れなのでしょうか。それは、わたしたちの現実と深く関係しています。わたしたち人間は、本来あるべき姿、本来あるべき神との関係からずれおちて、神の怒りと裁きの対象になってしまっています。神は、そのような罪の中に陥った人間を裁くことのできる唯一の方です。しかし、神は、人間を徹底的に裁いて滅ぼしてしまうことをなさらずに、御子を人の世に送り、罪人であるわたしたちの代わりに御子を十字架の上で裁くことをとおして、わたしたちへの裁きを完了したと告げてくださっているのです。
 そのキリストの受けた裁きと十字架の死の中に、わたしたち一人ひとりが自分の罪と神による裁き、そして死があることを見て、神に立ち返ることによって、わたしたちには、神との関係の回復が与えられるのです。それが、義と呼ばれる新しい神との関係です。「人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪にさだめることができましょう」とパウロは力強く述べています。これが罪ある人間の救いの内容です。
 神はこの出来事をとおして、わたしたちすべての者に、「あなたがたは、もはや罪の支配下にあるのではなく、わたしの支配下にあるのだ。罪の力のもとで死ぬのではなく、わたしの愛のもとで命に至るのだ」と呼びかけていてくださるのです。わたしたちは、御子イエス・キリストの出来事の中に込められている神の真実の愛を見るとき、神の城の中にかくまわれている自分であることを、深い感謝をもって覚えさせられます。
 わたしちは、キリストをとおして罪の支配下から神の支配下に移されるだけでなく、死の世界から復活の世界に移されます。罪と死の力に対する愛の神の勝利、そのことを感謝をもって覚える日が、主の復活節です。神の勝利は、わたしたちの勝利ともなります。その力強いメッセージをわたしたちは、聖書から聞き取ることができます。
 
しかし、どうでしょうか。静まって聖書がわたしたちに語りかける主イエス・キリストの復活の知らせ、神の愛の勝利の宣言、そしてわたしたちの新しい命の約束などを礼拝において聞き、感謝をもって礼拝の場から、それぞれの生活の場へと遣わされたとしても、わたしたちの日々の生活を取り巻く現実は、多くの困難に満ちています。地上の信仰者には苦しみの力が襲い続けます。いくえにも苦しみが、信仰者を取り囲んでいます。それゆえ戦いは続きます。しかしいくえにも取り囲んでいる苦しみ以上に、神の愛は、さらにいくえにも信じる者一人ひとりを取り囲み、包んでいるのです。神の愛に限りはありません。神の愛に終わりはありません。それゆえに神の愛の城の中から外へとわたしたちを引きずり出すだけの力を持ったものは、もはや存在しないのです。神の愛に留まろうとする者に対して、だれが敵対できるでしょうか。
 あまりの苦しみと悩みの中で、わたしたちの目に神が見えなくなることがあるかもしれません。大きく立ちはだかるこの世の勢力による困難の壁が、神の愛をさえぎることもあります。しかし雲によって太陽が覆われていても、太陽は存在し、光が地上に射し出でているように、信仰者を取り囲む状況がいかなるものであっても、神は存在し、神の愛の光は、さえぎるものを取り除いて、わたしたちに向けてつねに射し込んでいるのです。
 しかも、神の右にはわたしたちを執り成してくださる復活の主がおられます。神は御子の執り成しを聞き取り、必要な助けをわたしたちに与えてくださいます。御子をわたしたちに送られた神は、つねにわたしたちの苦しみ、痛み、戦いに身を寄せてくださるお方であり、敵対する力に負けることがないように守ってくださるのです。そして新しい命の約束の希望を、繰り返し新たに示してくださいます。神はとこしえまで、わたしたちの味方でいてくださいます。
 

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