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今月のみ言葉  
 
 「復活の喜び」      
 ヨハネ福音書 20章19〜23節  
        伝道師 粂 広国        
                                  「教会の声」説教原稿(5月号)
                                   

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 イエスが、復活された日の夕方のことです。その日の朝、復活の主に出会ったマリアは、弟子たちに主を見たこと告げ、イエスが父のところに上るといわれたことを伝えました。イエスが捕らえられた時、逃げ出してちりぢりなっていた弟子たちは、一つの家に集まっていました。それは、最後の晩餐の際イエスと食事をした家でした。しかし、彼らはユダヤ人を恐れて家の戸にかぎをかけていたのでした。彼らの心には、主が復活されたということを聴いてもなお喜びよりもむしろ恐れが支配していたのでしょう。
 そんな弟子たちの「真ん中に」復活のイエスが立たれたのです。「あなた方に平安があるように」。これは当時の普段の挨拶の言葉ですが「恐れることはない。勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」という意味を込めてイエスは呼びかけられたのです。復活の主の方から、言葉をかけるということは、なんという慰めであり、喜びでありましょう。主は、不安と恐れに閉ざされた心を、温かく開いてくださるのです。
 主は、弟子たちに手とわき腹をお見せになりました。弟子たちは今、彼らの真ん中に立っておられる方が十字架にかかられたイエスであり、そのイエスが復活されたことを確認したのです。その痛々しい傷跡は、イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちに、自分の罪の深さを思わせるしるしでもあったのです。主の尊いみ傷を見るときに、私たちも罪からの救いは、唯この方だけによるという信じ、み子を十字架につけてまで私たちを愛される神の深い憐れみと慈しみとにひれ伏すほかないのです。弟子たちも、十字架にかけられたイエスが復活して、いま共におられることを喜んだのです。16章22節に、「しかし、わたしは再びあなたがたに会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」とあるイエスの説教の言葉が、今実現しているのです。復活の主にまみえた喜びは、誰も奪うことができないのです。イエスは死に打ち勝たれた方だからです。教会から復活の喜びを奪うことはできないのです。
 復活の主イエスは、喜びに満たされている弟子たちに向かって復活の目的を語ります。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしも、あなたがたを遣わす」と。復活と派遣は、一つのことであります。弟子たちを派遣するために主は復活されたのです。主は弟子たちを派遣する時に、再び祝福をしています。「恐れるな。わたしは共にいる」と。主の励まし無しには、恐れず福音を宣べ伝えることはできません。伝道は人間の知恵や力でなされるのでなく、主の祝福と命令が無ければ不可能な神のわざであります。それは、後に続く主の言葉からも明らかです。「そう言ってから、彼に息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』。ヨハネ福音書では、復活と昇天と聖霊を一つのことと捉えています。「人の子は、上げられなければならない」というイエスの言葉は、十字架に上げられ、死から甦らされ、天に上げられる、つまり、十字架と復活と昇天を表すのです。
それから、イエスは弟子たちに息を吹きかけられて「聖霊を受けよ」と言われました。創世記2章7節には「神が塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられたので、人は、生きる者となった」とあります。イエスは、信仰を失って霊的に死んだ者となっていた弟子たちに息を吹きかえられて、信仰を再起させ、霊的な命を回復してくださる方なのです。イエスから命の息を吹きかけられ、聖霊を与えられることによって、人は古い自分に死に、新しく生まれ変わらされ、新しい人となるのです。人は自分の知恵と力とで、復活の主イエスの証人になることはできません。肉から生れる者は肉であり、霊から生まれる者は霊です。復活の主イエスから息を吹きかけられて、聖霊を与えられて初めて証し人となることができるのです。
主は実際に、罪を赦す権威と罪を裁く権威を委ねられることで弟子たちを証し人とされました。主は、復活して共にいてくださることを示すことで、証し人が、神から派遣され、聖霊を与えられ、罪を赦す権威を委られていることを宣言しておられます。これらは全て、今日まで、教会に託されたわざであり、復活がその根拠となっています。
パウロも「キリストが復活しなかったならば、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今なお罪の中にあることになります」とコリントの信徒への手紙一15章17節で言っています。
私たちは、教会に委ねられている罪を赦す権威とそのしるしとしての洗礼とが、復活のイエスの祝福と命令によって始まり、聖霊によって確かなものとされていることを改めて覚え、その務めを果たして行かなければなりません。感謝と喜び、慰めと希望の根拠を復活に置いて、復活の主の委託に応えて、罪の赦しを宣べ伝えていきましょう。
 

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