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 「五旬祭の日が来て」
                             −6月4日 聖霊降臨日説教より抜粋−
 使徒言行録 2章1節〜13節 
        牧師 堤 隆        
                                  「教会の声」説教 (月号)
                                   

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「五旬祭の日が来て」とありますところは、直訳すれば、「五旬祭の日が満ちて」となります。機が熟してと言っています。弟子たちは一つになって祈っていたと考えられます。そこに、神様はご自身を現してくださいました。「風、炎、現れ(2節〜3節)」はいづれも旧約聖書における神顕現用語だと言われます。神様は祈りを満たしてくださいました。弟子たちが神様を祈って無理矢理引っ張り出したのではありません。あくまでも神様が自由に祈りを聞き入れ、ご自身を現してくださったのでした。使徒言行録は神によって聖霊が満たされたと言って語り出しています。   聖霊が点から下って「一つになって」いる弟子たちに満たされますと、「霊」が語らせるままに、他の国々言葉で話し出したといいます。こういうところからこの五旬祭の物語は創世記のバベルの塔の物語の逆転あるいは回復物語として読まれてきました。創世記11章1節に「同じ言葉を遣って、同じように話して」いたとあります。この物語の結末は「互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう(7節)」です。このバベルの塔の物語を思い出して使徒言行録2章を読めば、逆転・回復と読めます。しかしこれは、世界共通語の有無が問題ではありません。バベルでは文化・文明は発達していました。「話し合った」ことは「れんがを作り、それをよく焼こう」ということです。ここからしますと、この「れんが」はそれまでの、藁を刻み込んで天日で干すだけの日干しれんがではありません。「よく焼こう」というのですから、技術的には一段と進んでいます。ここでは「石の代わりにれんがを漆喰の代わりにアスファルトを用いた」とあります。石や漆喰は自然にある素材そのままです。アスファルトも自然にありますけれども、これを使いこなすには、やはり技術力が必要です。こういう進んだ技術を用いて目指したところは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」ということでした。よく焼いたれんがをアスファルトでがっちり固めて、天まで届かせようという。下から上へと積み重ねていって、有名になろうという。これは、地上の人間が天上の神のようになろうとしたということです。問題の核心は「聞き分けられぬよう(7節)」にあります。この「聞き分ける」というところは、旧約では「イスラエルよ、聞け」といわれる神の言の「聞く」という字が当てられています。バベルで聞き分けれれぬようにされたのは神の言であったことになります。バベルでは神の言抜きで話し合われていました。そこで、いくら民主的に、知恵を集めても、神の言を抜きにしているならば、散らされる他はないとうことです。   それならば、バベルの塔の逆転・回復としてのペンテコステとは、いかなるものでしょうか。「めいめいが生まれた故郷の言葉(8節)」で話し出したとあります。9節以下には世界各地があげられています。これは、共通語のことよりも、話した内容が全世界に向けられていることをいいたいようです。それは「神の偉大な業(11節)」でした。神様の業を語ることは、そのまま神様を賛美することです。失敗と破れに沈んでいた弟子たちが祈ると、神様はこれに答えて聖霊を満たしてくださった。すると、そこに賛美が生まれました。これが回復そのものです。   使徒言行録は、それを一人の人物を通して明らかにしています。ここで説教を開始しているペトロです。使徒言行録と同じ著者によるルカによる福音書の22章には彼の内なるバベルが描かれています。主イエスがペトロの裏切り予告をなさるところです。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております(ルカ22:33)」というペトロの耳には、直前の主の思いやりのお言葉は全く入っていません。主が「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った(32節)」と言ってくださっているにもかかわらず、自分の「覚悟」でこの難局を乗り越えられると思いこんでいます。これはもう主のお言葉を聞いていないのと同じです。自分の「覚悟」という「れんが」を積み上げていけば「あなたと一緒」になれるとさえ、豪語しました。それは「有名になれる」、神も同然になれると言うのと変わり有りません。ペトロの覚悟がバベルの塔と同じように、音を立てて崩れたことは、ご承知のとおりです。そんなペトロがペンテコステの日に説教を開始しました。一同と共に一つになって祈っていると、聖霊に満たされて、神の大きな業を語り出すことがゆるされました。もちろん、もろいれんがをもう一度積み上げ出したのではありません。「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です(22節)」と言っています。この一点に回復されたのでした
 

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