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今月のみ言葉  
 
 「義に飢え渇く」
                             −7月9日 主日礼拝説教より抜粋−
 マタイによる福音書 5章6節 
        牧師 堤 隆        
                                  「教会の声」説教 (月号)
                                   

 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

人間の現実は飢え一つ取っても、飢えた人がそのままにされていたり、私たちも手出しできずにいたりしています。正しく手を取り合ってとはいっていないのが実情ではないでしょうか。主はもちろん「飢えていていいんだよ」とおっしゃるのではありません。飢えているその事が正しいとか、幸いだと言われるはずがありません。それなら、主は飢えている人をどう見ておられるか。神の義を預言したことで有名なのは、預言者アモスです(アモス書8章)。度量衡をごまかすというのは、ただの不正に留まりません。社会の信頼関係を揺るがします。神様はそれを「いつまでも忘れない(7節)」と言われます。それで、この付不義に対して、裁きが下る日のことが、預言されます(9節以下)。正義をないがしろにしたら、神はこれを裁かれるとの預言ですが、だからといって神様が正義の味方として現れて、不正を行う者や悪人をばったばったとやっつけて裁かれるというのではありません。「わたしは大地に飢えを送る」と神は言われます。そして、その飢えとは「パンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく」と続けられます。それなら、どんな飢饉か。「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」とはっきり言われています。しかも、「主のことばを探し求めるが、見出すことはできない」ほどです。貧しい者、苦しむ農民を、押さえつける不正義を続けていたら、み言の飢饉を招くと預言されています。それは、ただ神の言が分からないということではなくて、人間が何が正しくて何が正しくないことなのか分からなくなると言うことです。そうなれば、神の義が求められなくなり、人間の義も地に落ちてしまいます。...しかし、主は「義に飢え渇く人々は幸いである」と言われます。神様が人間の不正の真只中で、それを「いつまでも忘れない」といって、ご自分の義を貫いてくださる。それで、その神の義を求める人は幸いであると主は言われるのであります。人間の不義にあきらめることしないし、悪に開き直ることもしない、義に飢え渇く人の幸いです。...さて、そうかといって、主は飢え渇くこと自体を褒めておられるのではありません。あなたは飢え渇いて、良いことをしているの、立派だねとおっしゃるのではありまえん。アモスはみ言の飢饉というのは、み言を探しても見つからないということだと申しました。ですから、飢え渇いたからといってそれでみ言が見つかる訳でもありません。義に飢え渇いているから、神のみ心が分かるというものでもありません。義に飢え渇くのですから、自分の内には義はありません。アモスが言うように、もう、裁きの日を待つ他ありません。しかも、人間の不義を忘れないと言われる神様の裁きの日です。その日、「あなたが不正を働いたのも、仕方がないことだったんだね」とは言ってもらえそうにありません。「ときには、人を騙してでも自分を守らなければならなかったんだね。それはそれで、良かったよ。」とは、神様はおっしゃらないと思います。アモスは、裁かれるのは必至だと言います。それなら、裁かれるしかないのなら、神の言などいらない、求めなくてもいいということになるのでしょうか。そうなりましたら、やはりそれは諦めと開き直りでしかありません。主は、「幸いである」とはっきりおっしゃいます。あなたの裁きは必至である。しかし、それでも、諦めることはない、開き直って不義に居座ることもないと言ってくださるのであります。だからといって、飢え渇くほどに義を求める、その態度のゆえにということではありません。もしもそういうことでありますなら、私たちは義憤をいうことを思い浮かべると思います。だれも不正に気づいていないときに、いち早くそれと気づいて憤る。しかし、この義憤ということにも、罪が潜みます。憤ったからといって、不正がなくなるわけではありません。かえって、自分はこんなに憤っているのに、他の人はいつまで経っても気づこうともしない、みんな無知なままでいるといって、ますます憤りを大きくする。そうして、独善的になっていきます。主はそんな独善を幸いと言われるはずはありません。旧約聖書の成就者、実現者イエス・キリストが、幸いと言われます。人間の不正を忘れないで、裁くと言われた神の言を成就しにこられた主イエスが幸いと言われます。主は十字架に架かられました。裁かれました。私たちの不義の裁きが主イエスに向かって下されたのでした。だから、私たちはこうして生きていられます。...自分の罪のために正しく生きられない者のために、その罪に対する裁きを一身に負ったそのうえで、主は私たちの牧者となってくださいました。この牧者に養われて真に神の義を飢え渇くように求めて参りたいと思います。

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