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今月のみ言葉  
 
 「平和を実現する人々」
                             −7月30日 主日礼拝説教より抜粋−
 マタイによる福音書 5章9節 
        牧師 堤 隆        
                                  「教会の声」説教 (月号)
                                   

 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

「心の平和」というぐらいなら気が楽なのにと思われるのですが、やはり、危なっかしいところがあることに気づかされました。心の平和というと、平安・安穏という方へ流れてしまうかもしれません。誰もが心を騒がせるよりも、心穏やかに暮らしたいと願っています。けれども、心の平和・安穏ということばかり求めていきますと、どうも「自分一人の平和」ということに傾きやすい。自分さえ心穏やかにすごせたら、それでいいということになり易いのではないでしょうか。しかし、それで、本当に平和と言えるか。このところで、主イエスが幸せだねと言ってくださる平和が、果たして自分一人の平和であったのかどうか。じつは、主が「平和を実現する人々」のことを祝福されたのは、「自分一人の平和」が横行していたからでした。それは単なる利己主義というのではなくて、所謂「ローマの平和」という帝国主義による「自分一人の平和」な時代でした。「他の小国の利益・存立を犠牲にしても、自国の領土・利益の拡大・伸張をはかる侵略」以外の何ものでもありませんでした。・・・主イエスは「平和は、幸いなことだ」などと言われたのではありあmせん。「平和を実現する人々は、幸いである」と言われました。この「平和を実現する人々」というところは、元の字は一字です。元々形容詞であったものが名詞化したものです。新約聖書ではここにしか出てきません。そういう特別な字です。平和を実現することを身に着けている人々のことです。これまでの祝福のように、憐れみ深い、心の清いというのとおなじです。それなら、平和実現を身に着けている人というのは、どういう人か。喧嘩があれば、飛んでいって仲裁に入る世話好きな人のことか。それは、個人レベルでも、国家レベルでも、お節介になりがちです。大抵は余計にこじれるだけです。それなら、本当の平和を身に着けるとは、どういうことか。ある説教者が、平和を考えるとき、人と人との平和ばかりを考えるけれども、神と人との平和から考えないと、本当の平和は分からないと言っていました。この説教集を読みながらわたしは、マタイ福音書に重ねて読んでみました。主イエスの誕生の時と、ご受難の時に「平和」が語られています。となれば、神の御子による救いが聖書のいうところの平和ということになります。神の御子が地上に来てくださって、十字架に架かってくださらなかったら、地上に平和はなかった。神様との間にも、人との間にも、平和はなかった。地上が、自分一人の平和ばかり求めて、神との平和をないがしろにしていたところに、神の御子が来てくださって、神と人との平和をうち立てて、人と人とが平和になる道をきり拓いてくださったのであります。・・・山上の説教では、平和を実現する人は「神の子と呼ばれる」と言われています。平和の実現者として地上にお生まれになり、十字架に架かってくださった真の神の子と同じ者になると言われています。主は、「神の子のようになる・近い存在になる」とは言われませんでした。この「神の子」という表現ですが、これは、専ら主イエスを呼ぶときの言い方です。御子イエス・キリストと同じ立場に立たされるということですが、注意していただきたいことは、「だれから」そう呼ばれるのかということです。人々が、あなたたちは神の子だと呼ぶのではありません。ここは、「呼ばれる」と受け身で語られています。神的受動態と言われる表現方法です。神様から、このように呼ばれるということを言っています。真の神の御子イエス・キリストが「これは、わたしの愛する子」と呼ばれたのと同じように、私たちもまた、神様からそう呼んで頂けるというのです。どうしたら、こう呼んで頂けるのでしょうか。主イエスは受洗の後、悪魔の誘惑をお受けになります。悪魔は執拗に「神の子なら〜神の子なら」と言って誘惑しました。これに対して主は「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とお応えになりました。神に仕えることこそ、神の子のなすべきことだと言われたのでした。そうでありますなら、私たちも具体的に主イエスに仕えることで、神様に仕える神の子となれます。これが、平和を身に着けることになります。悪魔が言うように、人をひれ伏せさせ、ねじ伏せておいて、自分一人の平和を実現するところに真の平和はありません。むしろ、これと戦って行きたいと思います。そして、平和を身に着けようではありませんか。 

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