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今月のみ言葉  
 
 「信仰の身だしなみ」
                             −10月29日主日礼拝説教より抜粋−
 マタイによる福音書 6章16節〜18節 
        牧師 堤 隆        
                                  「教会の声」説教 (11月号)
                                   

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 イザヤ書58章には断食の問題が取り上げられています。イスラエルの民がバビロンに捕囚とされたときのことです。人々は深く傷ついていたころ、神の前での断食とは、愛と正義を行うことであると示されました。それが「主に喜ばれる」断食である。断食は愛と正義を行って神様を喜ばせることに他ならないといいます。自分が傷ついているからといって、誰かを同じような目に遭わせてやろうとするのはいいはずがない。むしろ、他の傷付いている人たちに愛と正義を行うことで神に喜ばれる。そうすれば救いがあるとイザヤは言います。
 この断食の精神でと、主は言われます(マタイ17節)。神様に喜ばれ、あなたも救われるように断食をするなら、頭に油をつけ、顔を洗って行いなさいと言われます。これは、お祭りの化粧ではなかったかという説明があります。確かに、お祭りの日には頭に油をつけたとしても、顔を洗うのはお祭りの日に限ったことではありません。顔は毎日洗います。ですから、主はここで特にお祭りの時の化粧をしなさいと言ってあられるのではないと思います。もしも、おしゃれをしなさいと言われたのだとしたら、断食をしていても、お祭りのような格好をしてという新しい偽善を行うことになってしまいます。
 「頭に油をつけ」というのは、公共の断食のときにはしてはいけないことになっていました。この当時のファリサイ派の断食は「髪を乱し、灰をかぶり、顔を白く塗った」ということです。主が言われる断食は、このファリサイ派のものとはまるで反対です。主は、断食を演ずることは、よしなさいと言われます。         主は、断食を見苦しく演ずることも、おしゃれに演ずることも両方ともを退けられます。それなら、「頭に油をつけ、顔を洗い」というのは、どういう姿なのでしょうか。わたしは、これは「身だしなみ」ということだと受け取りました。身だしなみは、人に不愉快を与えないようにすることです。自分がおしゃれをして楽しむこととは違います。信仰の業が、人に不愉快を与えるものであってはならない。信仰の身だしなみを身に着けなさいと主は言われます。イザヤ書で言われているとおり信仰の身だしなみがなければ、人と争い傷つけ、神に逆らうばかりです。
 私たちは、どんな信仰の姿をとっているでしょうか。何かで傷ついたとき、むっつりした顔までしなくても、沈んだ顔つきぐらいはするのではないでしょうか。だれでも傷つくことはあります。そのとき、悲しみ沈み込む。悲しんでいるのだから、悲しい顔をしてどこが悪い、当然ではないか、抑える方が偽善ではないかということになるかもしれません。しかし、そこに、偽善が生まれると主は言われます。自分に正直にありたいといって、かえって偽善に陥る。自分に対して正直・誠実という前に、神様の前にどうなのかということがなければ、何をしても偽善に陥ることになります。
 私たちが傷つき、沈んだ顔つきになってしまうとき、主はそれと戦うのだと言われます。そこに、偽善が待ち受けているから、それと戦えと言われます。頭に油をつけ、顔を洗いというのは、その戦いの仕方を教えてくださるものです。傷ついたとき、いくら、むっつりした顔をしても傷は癒えない。おしゃれをしてお祭りに出かけても、気分転換ぐらいにはなるかもしれませんが、傷までは癒されません。「それはあなたの断食が人に気づかれず(18節)」とあります。これは、17節の身だしなみのことを言われるのですけれども、当たり前のようで難しいことです。戦いだからです。身だしなみは当たり前のようなことですけれども人に気づかれないようにしなければ、身だしなみになりません。そこに戦いがあります。人から、「大変ね・可哀想ね。」と言って貰いたい、その思いと戦わなければなりません。ひたすら、神様と向かい合うためです。
 神と向かい合うことことは、信仰の基本姿勢です。信仰の身だしなみを整えるのは、きちんとした姿で、神様の前に出るためです。人に不快を与えないためばかりか、父なる神様が見ていてくださるのですから、信仰の身だしなみを身に着けたいと思います。
 

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