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今月のみ言葉  
 
 「あふれる豊かさの中から」
                             −12月24日主日礼拝(降誕節)説教より抜粋−
 ヨハネによる福音書 1章15節〜18節 
        牧師 堤 隆        
                                  「教会の声」説教 (月号)
                                   

 ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 16節は後半で念を押すような形を取っています。「わたしたちは皆、彼の充満から受け取った。しかり、恵みに恵みを(直訳)。」というようにです。そして、この後半の部分の解釈で意見が分かれます。「恵みの上に、更に恵みを」というところは、原文では「恵み、アンチ恵み」と書いてあります。野球で「アンチ巨人」と言ったりしますが、あの「アンチ」です。そうしますと、「アンチ恵み」といいますと、恵みに反対してということになります。「恵みの上に、更に」というのと、「恵みに反対して」というのでは大違いです。「アンチ恵み」を「恵に反対して」と読みますと、17節の読み方にまで係わってきます。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」これを、「アンチ=反対して」で読みますと、「律法対恵み」ということになります。律法では駄目だったから、その律法に反対して、恵みを受けたということになります。確かに、この面もあります。モーセを通して律法が与えられた。しかし、それを実現するかどうか、守るかどうかということが、人間の側の問題になりました。そこに、人間の責任と井うことが生じてきた。結局、人間は律法に責任を負えなかった。だから、仕様が無いので律法に反して恵みが与えられたという面です。
 わたしも最初、こちらの節で読んでなるほどと思いました。それなのに、新共同約聖書は、アンチを「上に、更に」と読んでいます。わたしの持っています辞書を、丹念に見ておりましたら、用例の最後のところに、「〜の後を引きついで」というのがあって、そこにヨハネ福音書1章16節が示されていました。「しかり、恵みに相次いで恵みを受けた。」という訳も付けられていました。だとしたら、17節の律法も恵みと言っていることになります。「モーセを通して与えられた律法という恵みの上に、相次いでイエス・キリストを通して現れた恵を受けた。」と言っていることになります。
 この恵と真理について旧約聖書を遡ってみますと、モーセが神様から二度目に石の板に十戒を刻んでいただくところで、恵みと真理が並んで語られます。これは、神の御心を表すものでした。イスラエルの民は、神をないがしろにしました。それで、モーセは十戒の板を砕かねばなりませんでした。しかし、神は罪の民を憐れみ、忍耐し、慈しんでくださった。それが、恵みと真理あると言って神ご自身が示された御心でした。ですから、モーセを通して律法が与えられたときから、恵みと真理は示されていました。だからこそ、恵みに恵みを重ねるようにして受けたとヨハネ福音書は言います。神の御心は途切れることはなかったいいます。17節は「律法はモーセを通して与えられたが、」といって、「が」という英語で言えばBUTのようなつなぎ方をして訳されていますが、原文にはBUTはありません。「〜与えられた。〜現れた。」と二つの文が並列されています。恵みに恵みをと言うことを敷衍しているのが、17節です。しかし、モーセを通してとイエス・キリストを通してという違いはあります。これも、証人ヨハネの証に基づいています。「先におられた。」ここから、「父にふところにいる独り子である神、この方が神を示された」と言いました。初めから神のもとにおられた独り子はモーセを通して律法を与えたときのこともご存じの上で、更に神を示されたと言います。 旧約は恵みに加えて、神様ご自身の真理についても語っています。神はご自身の真理を、独り子であるイエス・キリストが示された。この「示された」と訳されている字は「解き明かす」という意味があります。「解釈学」という字のもとになった字です。ことばの分析をしますと、「外へ+導く」となります。独り子なる神は、父なる神を外へ導き出した。人間の世界に、その御心を連れ出して明らかにされた。だから、「この方の満ちあふれる豊かさ」と言いました。この方は父なる神の御心をあふれ出させている。「いまだかつて、神を見た者はいない(18節)」。しかし、わたしたちは、クリスマスのこの日,父のふところで御心を見続けておられた御子をお迎えします。信仰の目で仰ぎ見用ではありませんか。
 

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