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 「イエスと名付けられた方」
                             −2月25日主日礼拝 説教より抜粋−
 マタイによる福音書1章18節〜25節 
        牧師 堤 隆        
                                  「教会の声」説教 (月号)
                                   

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。 
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 この時のヨセフの様子は「恐れ」であったと言います。自分の正しさだけを押し通してマリヤを石打ち刑にすることを回避したのですが、それでも尚恐れていた。今の自分としてはぎりぎりの決心だけれども、それでもマリヤとその子の命は消え入ることは目に見えている。直接自分が訴えることは避けられても、密かに園を切っても、マリヤとその子を死に至らしめることになる。この「恐れる」という字は「逃げる」という意味を持つ字が当てられています。ヨセフはもう恐くなって逃げ出しそうであった。人間の心も何もかも放り出して、逃げ出しそうであった。人間放棄寸前であった。....
 ヨセフはお告げを受けます。人間的なぎりぎりの決心をしても尚、恐れ、逃げ出しそうになっている。そのまっただ中でも神の御心を求めていたということです。ヨセフが人間的決心を越えたところで辿り着いたのが、恐れず・逃げ出さず、マリヤとその子を丸ごと受け容れるということでした。ヨセフは、それを天使のお告げとして聴きました。これが、神の御心を信じたわけです。人間的な愛以上の決断です。神様の前で、ヨセフは信仰の決断をしました。このヨセフの信仰の決断が、実際になされたことが、誰の目にも明らかになったのが、その子にイエスと名付けたときでした。ヨセフがイエスと名付けた。これは、あえてする行為でした。当時の命名は母親のすることでした。それが一般的であったといいます。父親が名付けるのは珍しい。それをヨセフはあえて行いました(25節)。ヨセフが自分の子でない男の子にイエスと名付けたのは、今風にいえば、法的に実子にした事になります。認知したわけです。しかも、聖書はただ認知したというだけではなくて、「天使が命じたとおり(24節)」といいますから、これは神様の御心に従ってなされたことである、ヨセフの信仰的決断によると明言していることになります。
 20節に天使がヨセフに呼びかける場面がありますが、「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけています。ヨセフによる命名は、主イエスをダビデの子、ヨセフの子どもにするということでもありました。何のためにか。16節にはヨセフとマリヤから「メシアと呼ばれるイエスがおうまれになった」とあります。この系図が示しているような長い神様の導きのもとに、このことは起こっているというのであります。更に、ヨセフとマリヤの間にお生まれになったということが大切になります。人間的な愛情や決心だけでは、とうていヨセフとマリヤの間にお生まれになることはできませんでした。信仰の決断を促されて、この夫婦は主イエスをお迎えすることができました。
 人間の力では、もう立ちゆかないところで、神の御子はヨセフを立たせられました。「ヨセフは眠りから覚めると(24節)」とありますが、この「さめる」と訳されているところには、「立ち上がる」という意味の字が当てられています。ヨセフは、恐れて逃げ出しそうになっているところから、信仰によって立ち上がることができたことが暗示されています。更に、この「立ち上がる」という字は「復活する」というときにも使われます。神様の前にある人間へとヨセフは復活させられたのでした。
 21節に「イエスと名付けなさい」とありますが、この後ろに原文ではきちんと「なぜなら」という接続詞が置くかれています。イエスと名付けるのは、なぜかというと「この子は自分の民を罪から救うからである」というように続いています。イエスという名前の意味は「罪から救う」であるといいます。イエスはヒブル語のヨシュア、これがギリシャ語に音訳されたものです。このヨシュアはヨシュア記のヨシュアです。「ヤーウェは救い」という意味を持つ名前です。今から生まれてこようとする男の子はイエスと名付けられる。罪から救う者である。命を放り出そうとする罪、人間性から逃げ出そうとする罪。ヨセフは、この子を迎え入れる信仰の決断によって、これらの罪から救われました。そうして、主イエスによって罪から救われた最初の人になりました。神の独り子が来てくださって、この救いが起こりました。聖書はヨセフ一人の救いではないと申します。インマヌエルという名前(22〜23節)は「神は我々と共におられる」という意味です。イエスと名付けられたお方にともなわれた、第二第三のヨセフとされていきたいと思います。
 

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