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今月のみ言葉  
 
 「陰府に下るキリスト」
                             −4月1日主日礼拝 説教より抜粋−
 ペトロの手紙一 3章13節〜22節 
        牧師 堤 隆        
                                  「教会の声」説教 (月号)
                                   

 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 陰府、死の世界・滅びの世界をハイデルベルク信仰問答は「わが身の最大の試練」、「わたしの地獄」と言います。死んだら、「わたし」は雲散霧消してしまう、全くの虚無、もう何もない、諦めるしかない。そんな所へ行くしかないとしたら、私たちは生きているうちから、むなしい。まして、死を迎えるとなったら、恐怖に怯える他ありません。まさに、生きているうちから、地獄の恐怖を味わうことになります。私たちは、「わたしの地獄」を抱える者だと認めることすら恐い。ときに、どうせ自分など」という思いも横切ります。
 そこで、ほとんど唯一と言っていい
「陰府」について言及している聖書の箇所はペトロの手紙T3章19節です。
主イエスが地獄にまで行って、悪人たちに伝道したと言いますと、何かお伽話のように聞こえてしまいます。しかし、ペトロはそんなおどけた調子で、このところを書いたとは考えられません。これを書いたのは、「義のために苦しみを受ける」ことになってきたからです。けれども、自分は間違っていない、周りの人たちが間違っている、自分は正しいのに、間違っている人たちに苦しめられると言っているのではありません。「神のみ心によって〜苦しむ(17節)」と言い換えられています。具体的には、迫害のことを言っています。この手紙は迫害に晒されている人々を励ますために書かれました。神を信じたばっかりに苦しめられるのでは、たまらないと思われても不思議はありません。そして、ここに「わたしの地獄」が現れ出ます。9節には悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いないと主が教えてくださったことが引用されています。もしも、死んだら何もない、無に帰するだけというのであれば、この信仰の生き方はむなしくなります。やられても、やり返さない生き方は、苦しめられるだけ苦しめられて遂に命を奪われて終わる。それはまさに「わたしの地獄」です。ペトロは、この「わたしの地獄」となりかねない苦しみを「義のため」、「神のみ心によって」のものだと言います。こうして遂に、18節以下、当時教会が教えていたところを持ち出しました。
 ですから、原文では18節は「なぜかと言えば」ということばから始まっています。苦しむことまで引き受けられるのは、なぜか。「キリストも罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。(18節)」キリストも苦しまれた。このキリストの苦しみが、あなたがたを神へ導いた。このことは、教会で教えられているでしょうとペトロは言います。後半は少し分かり辛いかもしれません。このところは、肉体は死んでも魂は生き続けるということが言われているのではありません。人間の状態を言うのではない。二元論的な人間論が語られているのではありません。これは、救いの領域の事が言われています。「肉では死に」というのは、救いのないところに行かれたことを言っています。「霊では生きる」は救われたことです。
 具体的に言えば、主イエス・キリストは「わたしの地獄」を死んでくださった。そして、そこから生きる者となって私たちを生かしてくださった。「祝福を受け継ぐために、あなたがたは召されたのです(9節)」とあります。やられたら、やり返すのではなくて、そこで相手のために祝福を祈る。これは並大抵のことではありません。相手は自分を迫害してくる者です。神を信じる者を迫害する。そんな者のために、キリストは苦しみ、死んでくださった。「キリストも罪のために〜苦しまれました〜死に渡されました」と言われているとおりです。キリストは「わたしの地獄」を死んでくださった。すでに、主イエスが悪を行う者、侮辱する者を祝福なさいました。そして、神のもとへ導かれました。このことは徹底していました。「捕らわれていた霊たちのところへ行って」とまで言われています。これが、「陰府にくだり」ということです。主は死者の世界にまで行って伝道された。使徒信条はキリストは神に従わない者たちを、どこまでも追い求めてくださるお方であるという喜び溢れる信仰告白です。
 主は「わたしの地獄」を死んでくださったリストは、今も誰一人逃されないのであります。
 

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