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 「天に担保を持つ」
                             −5月6日主日礼拝 説教より抜粋−
 使徒言行録1章1〜11節,2章29〜36節  
        牧師 堤 隆        
                                  「教会の声」説教 (月号)
                                   

 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 復活の主は、地の果てに至るまで、救いを行き渡らせるために、天に昇って、そこで父なる神の右腕となって、力を振るっていてくださる。ご自分が大仕事をして疲れたというので、休んでくつろいでおられるのではありません。天を見上げてぼんやりしていた使徒たちに語りかけた御使いの言葉は「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる」というものでした。この同じ有様というのは、我々人間の肉を脱ぎ去っておられないことを言っています。人間と同じ有様です。主は人間の現実を捨て去ることなく、天に昇り、神の右に座し、再びそこから人間の現実を負って来てくださる。全く遠さはありません。主は今もまことの神の子として、まこのの人の子として神の右に座っておられるのであります。ハイデルベルク信仰問答は、これを私たち人間にとって担保となっていてくださることだと申します。私たち人間も天に引き上げられる。そのことの担保として、天に肉を持っている。主が人間の有様で天に昇って、神の右に座しておられることで、救いを確実にしていてくださる。2章31節に蘇りの主の「その体は朽ち果てることがない」とあります。その朽ち果てることのない体をもって、神の右に座して、神に敵対する者を支配するために働き続けていてくださる(34、35節)。罪人に対してさえ「主〜またメシア(36節)」であられます。
 ハイデルベルク信仰問答は、主が朽ちない体で天に昇られたから、我々は天に担保を持っていると言うのですが、これは、約束が確実に果たされるという担保です。そうすれば、私たちは確かに信じて立つことが出来ます。地の果てにまで、神の民が立て直されるとの約束です。約束が果たされるかどうか分からないと疑ったり、動揺したりすることはない。約束が果たされるまでの間、信じて立てるのであます。
 使徒言行録はこの具体例をこのあと挙げています。天のキリストを担保として持つ人の実例です。それはあのステファノです。彼はペトロと同じようにユダヤ人の非を明らかにしました。ただ非難攻撃したのではなく、主・メシアを証しし続けました。ところが、そのことで彼は迫害を受けることになりました。「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノにむかって歯ぎしりした(7:54)。」このとき、ステファノは神の右におられる主を仰ぎました。「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った(7:55〜56)。」ステファノは遠くに主を見ているのではありません。自分の命が狙われている真最中に神の右におられる主を幻のうちに見ています。「立っておられる」というところを、聖書学者の説明では「いる」の別の言い方であって、「座している」ことと変わりないと言います。その通りかもしれません。しかし、右に座しておられる方が、立ち上がってくださったと読むことは信仰的には間違いではないと思います。誰よりもステファノはこのとき、このように身近に仰いでいたに違いありません。しかし、ステファノは「主よ立ち上がって敵をやっつけてください」とは言いませんでした。「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて『主イエスよ、わたしの霊をお受けください。』と言った。それから、ひざまづいて『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ(7:59〜60。」このときのステファノの言葉は、十字架の時の主イエスのおことばとそっくりです。ステファノは神の右に座しておられる主を仰ぐことによって、主イエスと同じように、神を信じ生涯を全うしました。キリストを同じように信仰に立ち続けることが出来ました。これが、使徒信条の教える生き方です。死ぬとき、泣いたり叫んだりせずに毅然としていられるかということが問題ではありません。ステファノは、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。人の罪赦しを祈り求めています。自分のことはと言えば「わたしの霊をお受け下さい」とだけです。天の担保に望みを置くとき、私たちも第2、第3のステファノになれるのではないでしょうか。

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