札幌北一条教会 
 
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今月のみ言葉  
 
 弁護者・真理の霊・聖霊
                             −5月27日主日礼拝 説教より抜粋−
 ヨハネによる福音書 14章15-31節  
        牧師 堤 隆        
                                  「教会の声」説教 (月号)
                                   

 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」
 
                                (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 この14章は主の訣別説教と言われます。聞いているのは、直弟子ばかりです。ペトロ、トマス、フィリポと名前が挙がっているところからも分かります。それならどうして、直弟子たちは主が直接自分たちに話してくださったことを聖霊なる神に思い起こさせていただかなくてはいけなかったのか。このところが不思議です。ペトロをはじめ直弟子たちが、そんなに物忘れの激しい者たちであったとも思われません。この「思い起こさせてくださる」と言われていることは、記憶力を甦らせてくださるというようなことではないと思われます。
 ペトロ一人のことを考えてみましても、ペトロは十字架の後に主イエスが話されたことを思い出したかったかどうかです。むしろ、思い出したくもなかったのではないでしょうか。ペトロは主を三度否むことになると予告されていました。そして、実際に三度否んでしまいます。主が言われたとおりになってしまいます。そのことをだれが思い起こしたいと思うでしょうか。出来ることなら忘れたい、主イエスにも忘れて頂きたいと虫のいいことを考えたとしても不思議はありません。それを聖霊なる神が思い起こさせると主は言われます。嫌みでこんなことをおっしゃっるはずがありません。真意はどこにあるのか。この「思い起こさせる」と言うことはヨハネ福音書ではただ記憶を甦らせるというに留まりません。主イエスの地上の活動の意味が明らかにされるときに「思いおこさせる」と言います。ですから、主の十字架と復活の後で、主イエスのお話しになったことをことごとく思い起こさせてくださるというのは、そのお話の真理を悟らせてくださるということです。ペトロはユダと変わらない裏切り者であることが露呈します。それなら、主の話されたことは只ペトロの罪を暴くだけのものであったかといいますとそうではありません。聖霊なる神がこのペトロの否認を思い起こさせるとき、それは弁護者・真理の霊としてであります。ですから、ペトロは「思い出し〜信じた(2章22節の組み合わせ)」ことになります。只記憶を甦らせたのではなく、弁護者・真理の霊なる聖霊によって、思い起こさせていただいたからこそ「信じる」ことができる。
 そうしますと、聖霊なる神は「信じる」べき神であると同時に「信じさせる」神様でもあられます。主は「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」といって、聖霊なる神の派遣を父なる神様に祈り求めてくださいました。それは、みなしご状態の中でも信じさせて頂けるということです。病気になっても、困窮しても、悩みを抱えても、孤独の中におかれても、それでも私たちはみなしごとはされないと約束されています。誰が見捨てようとも、聖霊なる神が弁護者となって主イエスのもとに私たちを連れて行ってくださるのであります。
 27節で主は「平和を残し〜平和を与え」と繰り返し平和ということを語られました。ユダヤの言葉で「平和」と言われたときにはシャロームであったと思われます。シャロームは平穏無事、何事も無い状態のことではなく、充ち満ちた状態を言います。キリストの平和が詰まっている。だから、心騒がせるな、おびえるなと言われます。「私は去って行くが、また、あなたがたのところに戻ってくる(28節)」、これは再臨の約束です。私たちはすでに使徒信条の「そこから来て」という再臨の箇条を学びましたが、ここでは再臨そのもののことが語られています。1節〜3節で「戻ってくる」と言われれ、この28節でもう一度言われています。その丁度真ん中で、聖霊なる神を遣わしてただくことにするとおあ語りになっていますから、主は聖霊によって再臨すると言っておられることになります。聖霊によって主が臨んでくださるとき、「わたしを愛する(15節、21節)」ようになるとおっしゃいます。復活の主は、三度否んだペトロに三度私を愛するかと問われました(21章)。もう自分の勇気や愛情では愛せないと身に染みているペトロにです。それは自力で愛せるかと問われるのではありません、復活した私を愛して、あなたも甦りなさいという呼びかけです。そして、これは私たちへの招きでもあります。
 

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