札幌北一条教会 
 
      北一条教会トップページ | 今月のみことば | これまでのみ言葉 | 今月の礼拝演奏会・特別集会おしらせリンク       


今月のみ言葉  
 
 キリストの愛に駆り立てられて
                             −7月1日主日礼拝 説教より抜粋−
 コリントの信徒への手紙U  5章11節〜21節
        牧師 堤 隆        
                                  「教会の声」説教 (月号)
                                   

 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
 それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「和解」ということばが何度も出てきます。元のことばには、「代わる」という意味があります。「取り替える」とか、「交換する」と訳しうることばです。この使徒信条の部分を解説しているアンドレ・ペリーという人が、この「代わる」と言う意味を興味深く説明していました。それは、子どもが自動車を運転するというたとえです。曰く、「私たちは父親の自動車に乗ってむりに運転しようとするが、運転を知らない子どものようなものである。」そんなときに神様は、私たちにこう言われる。「交替しよう。私が運転しよう。お前は運転の仕方を知らないので、お前の身を、死の危険から逃れさせてあげよう。」罪の赦しとは、このような危険なところを交替してもらうことだと言うわけです。
 神様の側からすれば、子どもが出来もしない運転をして、死の危険に身を晒してしまわないようにというお心があります。神はそういうお心を私たちに向けていてくださるということです。罪による死の危険から救い出してくださった。それは、どのようにしてか。どのように替わってくださったのかということを語るのが14節です。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方が死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。この14節は前半と後半は独立して、別々のことが語られているように見えますが、実は密接な語り口になっています。真ん中にあります「わたしたちはこう考えます」が、前後を密接につないでいます。後半を前半に掛ける役割を負っています。「わたしたちはこう考えるので」とか、「こう考えるとき」という表現になっています。わたしたちは、こう考えるとき、キリストの愛がわたしたちを駆り立てますという具合です。 神様が、「交替しよう」と言ってくださったとき、実際には、キリストがすべての人に替わって死んでくださった。実に、キリストは死の危険を我が身に負ってしまわれました。罪の償いは、だれにも出来ないことでした。人を悲しませること、ひとつ取っても、だれも償うことなど出来ません。罪人は自分の犯した罪を償うことが出来ません。例えば、だれかの片腕をちょん切ってしまったら、謝ってみても、お金を渡しても、また、自分の腕をちょん切ってみても、相手の腕は元どおりにはなりません。やはり、償いは不可能です。
 だからこそ、この世で唯一、罪の償いができるのは、「罪と何のかかわりもない方」でけでありました。肉体に犯す罪だけではありません。人を悲しませて心に傷を負わす罪も同じです。相手を犯すことは突き詰めれば、神を冒す罪です。神のもとに明らかにされない罪はありません。それを驚くべきことに、キリストが、この罪人と交替してくださいました。それで、この交替してくださったことを考えるとき、わたしたちは、キリストの愛に駆り立てられて、生きざるを得なくなります。 しかし、これはキリストが罪の処罰を受けることを交替してくれた。ああ、これで助かった。もう自分は弁償しなくてもよい。そう言って胸を撫でおろしていいということにはなりません。
畏れと確信を持って生きる生活が与えられたのですから。駆り立てられるまでのキリストの愛を受けたのですから、それにふさわしく生き始めます。キリストが、自分の代わりに死んでくれたから、自分はもう何もしないくてもいい、何も怖がらなくても良い、楽をしていかれるということにはなりません。キリストの命をいただいたのですから、そのキリストの命を生きる他ありません。15節に明言されているとおりです。「その一人の方は、すべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」
 これは、18節や19節のような具体的な暮らしになります。「和解のために奉仕する任務〜和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」あなたも罪赦しに与かれるとの言葉が委ねられました。「神と和解させていただきなさい(20節)」と伝えたいと思います。
 

 北一条教会トップページ         これまでのみ言葉