札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「熱愛する神」
出エジプト記 20章4節〜6節
牧師 堤 隆
−8月5日 週日礼拝 説教より抜粋 −
「教会の声」説教(月号)

 神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
 殺してはならない。
 姦淫してはならない。
 盗んではならない。
 隣人に関して偽証してはならない。
 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 十戒の第二戒は、他の神々の偶像化が禁じられているのではなくて、イスラエルの神ヤーウェを像にすることが、禁じられています。出エジプト記では、この第二戒違反の実例として、アロンの金の子牛事件が報じられています(32章)。モーセがシナイ山で十戒を授与されている最中に起こった事件でした。目に見える導き手がいないという不安に駆り立てられた人々が犯した罪でした。不安をぬぐい去るために、明らかに目に見える形で神を見ようとしました。これは、信じたら、儲かる・治る・安心だという目に見える効果に心惹かれる私たちの弱さと重なります。しかし、そのような事をすれば、どれ程、自分のイメージでアイドルを作り上げることになるか、もう自分でも見えなくなります。
 真の神を閉め出してしまいます。金の子牛のあるところに神もいることにします。逆に金の子牛がなければ、神もいないことになります。つまり、神の居場所を人間が制限することになります。金の子牛があるところに神がいるといいましても、金の子牛が何かをしゃべったり、行ったりするわけではありません。神を物言わぬ置物にしてしまいます。
 そのように偶像化して、やっていることは信仰の名を借りた飲食と戯れでしかなかった(32:6)。金の子牛が物も言わず何も行動を起こさないことをいいことに、自分たちの願望を自分たちの都合のいいように満たすだけでした。
 神ヤーウェは、自分はこの世の被造物のいかなるものによっても模写されないと言われます。人間は神の教えを「真似ぶ(学ぶ)」ことは出来ても、神が被造物を「まねぶ」ことはあり得ない。神様は、被造物によってご自分が制限されることを望まれない。イメージでアイドルにされては困るとおっしゃいます。
 そして、「わたしはヤーウェ、あなたの神」であり続けると言われます。わたしは、あなたによって神にしてもらった訳ではない。そこで、なぜ、救いの働きを自由に行ったのかを語って「わたしは熱情の神である(5節)」と言われます。ご自分が熱情の神だから、その自分の熱情からイスラエルを救ったと言われます。口語訳聖書では「ねたむ神」と訳されていました。英語の聖書ではジェラス・ゴッドという訳がつけられているものがあります。ジェラシーを持つ神。しかし、ジェラスも、元もと、ねたみ、そねみというより熱心のことを言ったようです。ここでは愛して止まない熱心さですから、熱愛する神です。
 しかし、それは可愛さ余って憎さ百倍というのとも違います。熱く愛する神です。第一戒では「わたしをおいて」は「わたしの前に(直訳)」でしたが、第二戒でも、原文では四節は「あなたのために」という一言が入っています。わたしの前にあるあなたが、自分のために像を造るようなことをしてはいけないと神は言われる。わたしがあなたの神だから、わたしはあなたをエジプトから導き上るほどに熱愛しているのだからと言われます。
 熱愛の程を語るのが、5〜6節です。これはどう見ても、可愛さ余って憎さ百倍ではありません。人によっては、愛憎というアンビヴァレントな心の持ちようのことだと説明しますが、果たして、神の心の中に愛と憎しみとが同居していることを言っているものかどうかは、よく分かりません。
 ここでは、神のいつくしみは、罪を問う三代、四代に比べて、幾千代です。4:1000にしましても250倍です。「わたしを否む者(5節)」は、「わたしを憎む者(直訳)」です。愛を注ぐ神に対して、憎しみを返す者のことです。自分勝手にすることのできない神であるなら、さっさと閉め出す者のことです。だから、「わたしを否む者」でもあります。神は、こういう者たちを放置なさいません。憎まれません。やはり、6節にありますように「わたしを愛し」て欲しいと望んでおられるからです。愛に対して愛で応えて欲しいと望まれるのが、熱愛する神のお心です。子の神に愛されているひとりひとりであることを確信して、このみ心にお応えして礼拝を守り続けたいと思います。      

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