札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「主の安息日であるから」
出エジプト記 20章8節〜11節
牧師 堤 隆
−8月26日 週日礼拝 説教より抜粋 −
「教会の声」説教(月号)

 神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
 殺してはならない。
 姦淫してはならない。
 盗んではならない。
 隣人に関して偽証してはならない。
 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

「安息日を心に留め、これを聖別せよ」、このところは口語訳聖書では「安息日を覚えて〜」でした。「覚えて」はただ記憶することに留まらず、「仕事を覚える」というように「身に着ける」ことまでも含んでいるようです。だとすれば、十戒は安息日を身に着けることを求めていることになります。わたしたちは主の日を安息日としてどのように身に着けているのかが、問われてきます。わたしたちの周りには、週日の仕事が忙しくて日曜日は昼まで寝ていないと体がもたないという人がいくらでもいます。その一方で、不況と言われながら何日も休暇を取って海外旅行をする人も珍しくありません。しかし、仕事のために疲れを取るとか、働いて貯めたお金で余暇を楽しむことが「安息日を覚える」ことにはならないと思います。
 また、「これを(安息日)聖別せよ」と言われています。日曜日を聖なる日とするなら、月曜から土曜までは俗なる日ということか。もしもそうであるなら、週日は少々汚いことにも手を染めても構わないということにもなりかねません。果たしてそうでしょうか。「安息日を聖別するためにこれを覚えよ」というのが原文の順序です。そうしますと、聖別することが目的になります。聖別する目的・内容は「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし(9節)、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない(!0節)。」です。9節の「働いて〜仕事をし」ということも、聖別することの内容として読んで良いのではないかとわたしは思っています。もちろん職業の仕事に限りません。主婦の仕事、学生のなすべき事、定年になった人にも週日の暮らしがあります。9節は誰にもある週日の六日間の生活と読んで良いのだと思います。むしろ、十戒はこれを積極的に捉えて「働いて〜仕事をし」といって強調しています。週日の暮らしを積極的にきちんと送ることも安息日を聖別することに含まれているようです。週日をいい加減にしておいて日曜日だけ大切にするというのでは、安息日を聖別したことにはならないのだと思います。
 そこで、安息日を聖別する理由が「あなたの神、主の安息日であるから」と言われています。「わたしが」仕事を休んで疲れを取るためとか、「わたしが」レジャーを楽しむためということが第一の理由ではありません。あくまでも、「あなたの神、主の安息日であるから」というのが第一の理由です。創世記2章1節〜3節には、第7の日は神がご自分の仕事を完成された日と言われています。未完成だけれど、疲れたので休まれたのではありません。また、出来損なったので、永遠に中断なさったのでもありません。神様は万物を完成されました。完成されたから、仕事を離れ、安息なさいました。仕事を離れるのも、安息できるのも、完成しているからです。未完成のままでは仕事を離れられません。出来損なったのでは、安息できません。神様は完成されたから、仕事を離れ、安息し、更にこれを喜んで祝福し、聖別されました。これが「主の安息日」です。
 十戒は、この主の安息にあなたも与れると言います。わたしたちは、未完成・出来損ないであるかもしれない。いや、それ以上に罪ある者です。しかしそれでも、いやそれだからこそ、創造の神に完成していただく必要があります。そして実際に安息日がわたしたちの救いに与る日として与えられています。主の安息日に与るということは、神の被造物として完成されることです。罪から救われます。この救いに与る日は、当たり前の日ではありません。特別な日として大切にします。それが、安息日を聖別することになります。安息日を聖別して、罪赦され完成されるとき、週日の生活もきちんと送れるようになります。自分の暮らしだけのことではありません。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である(10節)」と言います。自分の身のまわりの者たちすべてが、この救いに与かれるよう努めることが求められています。わたしたちの周りの人々と共に救いに与ることを心に留めていたいと思います。 
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