札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
刈り入れと働き手」
マタイによる福音書9章35節〜38節
伝道師 粂 広国
−9月30日 週日礼拝 説教より抜粋 −
「教会の声」説教(月号)

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 イエスは三つの活動をなさりながら町や村を巡り歩きました。会堂で教え、神の国の福音を宣ベ伝え、病気や患いを癒すことです。そのイエスの眼に映ったのは、群衆が「飼い主のいない羊のように」虐げられ、疲れ果てている姿です。群衆には指導者がいなかったのでしょうか。当時律法学者と呼ばれる人が指導者と目されていました。しかし彼らをはじめ当時の宗教的指導者とされる人たちは、律法の細かい規定を民衆に重荷のように負わせるだけで、重荷に苦しむ民衆を省みることはありませんでした。
 このような蔑まれ虐げられた民をご覧になって、イエスは深く憐れまれます。イエスの眼はそこに起こっている事態の本質を見抜き、今何が必要なことなのか、何をなすべきかを的確に判断なさる洞察力をもっています。人の痛みや苦しみを自分の体で感じるがごとき痛みを感じながら、深い共感をもってご覧になります。イエスの憐れみには限度がありません。飼い主のいない羊がどんなに悲惨な事態かは、出エジプトの場合を考えてみると分かります。もしモーセという指導者がいなかったら、イスラエルの民は荒れ野で飢え死にするか異民族に滅ぼされてしまったでしょう。「深く憐れまれた」という言葉は、マルコによる福音書六章三四節にもあります。しかしマルコ福音書ではイエスは憐れんで群衆に教えた後、五千人に食べ物をお与えになりました。マタイ福音書では、イエスは別の判断をなさっています。それが三七節の「収穫は多いが働き手が少ない」というお言葉に表れています。イエスが言われる収穫とは、救いが必要な時のことです。イエスはそれまでも宣教のわざをなさってきましたが、いつまでも御自分だけでそれをなさるのではありません。群衆を見てある判断をなさりました。それは、イエスのわざを引き継ぐ者をお選びになるという判断です。その機が熟していました。だから続く一〇章では、一二弟子の選びと派遣が記されています。しかしイエスはまず、弟子たち自身が祈ることを求められます。「収穫のために働き手を送ってくださるように収穫の主に願いなさい」イエス御自身、一二弟子を選ぶにあたって祈られたことがルカ福音書に記されています。働き手を送るのは収穫の主です。弟子をお選びになるのは、父なる神でした。イエスは一晩祈り続けて父のみ旨を尋ね、そののち一二人の弟子をお選びになりました。
 私たちはこの「収穫の主に祈りなさい」という言葉を受けてすぐに「無牧師の教会に牧師をお送りください」と祈ります。しかしイエスの眼は、祈る人一人一人に向けられます。一人一人が真剣にイエスに向き合って祈る時、「誰か他の人をお遣わし下さい」とは祈れない。そこに全く別のことが起こります。弟子たちもイエスの言葉を聞いて祈ったことでしょう。そして選ばれ遣わされたのは、祈った人自身でした。イエスに向き合って祈る時、人は自分自身がイエスの弟子とされといることに気がつきます。それだけでなく、イエスが人々を見た眼差しで他者の見えざる苦しみを見ることができるようになります。ついには自分が誰に向かって遣わされているのかを知るようになります。やがてイエスが先立って歩んでおられる理由が分かります。祈るあなたがイエスと同じように歩むためです。その時もはや「誰か他の人を」という願いは起こりません。「わたしのために主イエスは死なれた。この救いはわたしになされた。」この認識は人を根本的に変えます。「ここにわたしがおります。わたしをお遣わしください。」イザヤは悔い改めて赦され、自分を知り、遣わされる相手も示されました。ではわたしは誰に対して遣わされているのか。身近なところに助けを求める叫びがあります。表面的には普通であっても魂に深い痛みを心に虚しさを感じている人は少なくありません。専門的な知識は必要ありません。イエスの憐れみの心でもってその人に寄り添う、単純なようでそれが救いの入り口となります。自分の痛みに真心から耳を傾ける人がいる。理解してくれ人が傍らにいる。それは単なる慰めの域を越えて、憐れみをもって接する人の背後におられる方に目を向けるようになります。あなたの理解を必要としている人がいます。イエスはこうして祈る人の眼を開き、救いが必要な人のもとへと「祈る人」を遣わされます。救いを人のもとに届けるために。


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