札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
不思議な系図」
マタイによる福音書1章1節〜17節
牧師 堤 隆
−12月2日 主日礼拝 説教より抜粋 −
「教会の声」説教(12月号)

 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

  この系図は不思議な系図です。古代の系図には決して入れられない女性の名前が入っているのもその一つです。罪の女性たちだと説明されますが、一人一人を聖書を辿ってみていきますと、必ずしもそうとは限りません。むしろ、旧約聖書も新約聖書も彼女たちを良い方に評価しています。彼女たちは歴史の犠牲者とも言えます。しかし、これらの弱く小さな存在を通してこそ、神様は救いの歴史を繋げてくださった。マタイ福音書はそのように言います。危ういところを支え導いてくださった神様の救いをこの系図から読みとれと言っているようです。
 とは言いましても、マタイ福音書は普通に系図で物を言うときのように、系図で誇ろうとはしていません。もしも誇るつもりなら、たとえ女性を載せるにしても、この4人にはしなかったはずです。アブラハムの妻サラ、このサラがイサクを生んだ。そしてこのイサクの妻リベカが、ユダを生んだ。そして、ユダの妻レアがヨセフを生んだ。このように記したはずです。しかし、マタイ福音書はそうしないで、アブラハムが祝福の源となるようにと神様から言われながら、その祝福が費えそうになるとき、誰が見ても無力な小さな者に神様が働きかけて、これを繋いでくださった。それをこの4人の女性に見て取れと言います。
 その上で、5人目の女性としてマリアが挙げられています。弱く小さな者が神様に用いられたという4人の女性の系譜にマリアが入ってきます。神がこの弱い小さな者のところにやって来てくださった。神はこれらの5人の女性とどのように係わられたか。この不思議な系図は盤石ではありません。アブラハムの系図がすでにこの4人の女性によってようやく繋がれていることからも分かります。ダビデの系図にしましても同じです。バビロン捕囚に沈んでいきます。それから、捕囚以降も13節のアビウドから後ろの人々は旧約聖書に登場しません。どういう人たちか、もう分かりません。アビウド以降で事情がわかるのは、ヨセフだけです。私たちはヨセフが大工であったことを知っています。ダビデ王やソロモン王は、大工を大勢使って神殿や宮殿を建てさせました。ところが、その子孫ヨセフは大工となって使われるようになっています。マタイ福音書はここで軽蔑の意味を込めてはいません。アブラハム、ダビデの系図は下降線を辿って行ったことは間違いありません。しかし、危ういところで、からくも繋がれていった。そして、辿り着いたところが、「メシアと呼ばれるイエス」であると言います。それなら、メシアと呼ばれるイエスのところで、輝かしく華々しく系図は急上昇したと言っているのか。ある人が、このイエスは十字架につけられるのだ、世間的には犯罪者になったのではないかと指摘していました。そうすると、メシアと呼ばれるイエスはどん底に来られた事になります。
 ユダヤ人はこれ以降もう自分の子どもにイエスという名前を付けなくなります。ユダヤ人の名前でヨシュアです。
現代ヒブル語ではヨシュアと言ったら「あめんぼう」のことを指すそうです。水の上を歩いたイエスを揶揄しています。マタイ福音書は十字架に犯罪者として架けられたイエスを知っていて「メシアと呼ばれるイエス」と書いています。どん底に下ったイエスがメシアとなってくださったのだと言います。この不思議な系図は、常識では考えられない神の介入・救いを伝えています。
 この不思議な系図は「アブラハムは」と言って始めていましたが、アブラハムは祝福の源となれと言われていました。それをマタイ福音書は28章19節で「すべての国民をわたしの弟子としなさい」といってアブラハムへの約束の具現化を示しています。
 それなら、「ダビデは」ということはどうかといいますと、28章18節で甦りの主は、天と地の一切の権能を授かっていると言われます。ダビデの子イエス・キリストは、王家の地図時と言うだけでなく、ダビデにおける神の約束、即ちメシアが出るという約束が成就されているのであります。
 待降節を迎えまして、この神の約束成就を確信したいと思います。


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