札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
無償の赦し」
マタイによる福音書6章12節
牧師 堤 隆
−2月3日 主日礼拝 説教より抜粋 −
「教会の声」説教(2月号)

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
 御名が崇められますように。
 御国が来ますように。御心が行われますように、
 天におけるように地の上にも。
 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
 わたしたちの負い目を赦してください、
  わたしたちも自分に負い目のある人を
  赦しましたように。 
 
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈って、私たちは神様との条件闘争をしているのではありません。カルヴァンが起草したジュネーブ信仰問答では、第X祈願を教えるのに罪の赦しは神の無償の好意によるとあります。そして、神の無償の好意である罪赦しを台無しにしてはならないことを繰り返し教えています。自分が人を赦すことが神の赦しに価するとするならば、無償の赦しを無償でなくしてしまいます。イエス・キリストの死において果たされた贖いに基礎を置かなくなってしまうのだとも教えられています。
 18章の赦されているのに赦さないという罪を重ねる現実も、無償の赦しを自ら放棄することになります。自分が人を赦すことを条件にすれば、無償になりませんし、自分が赦されることばかり求めるのでも、無償の赦しを捨てることになってしまいます。言葉が悪いのですが、18章の悪い僕は取り込み詐欺をしているようなものです。それが、私たちの現実である。神を知らないのではない。強化に通う者の現実だとマタイ福音書は訴えます。
 主イエス・キリストから頂いた赦しは、どこまでも無償のものでした。この点で私たちプロテスタント教会の者は、誰よりも敏感なはずです。何か立派なことをしたとか、力や資格があって罪赦されたのではありません。罪人には何の能力も功績もありません。赦しを求めることさえ出来ない。そんな者を主は一方的に赦してくださいました。この無償の赦しを私たちは知らないのではなく、これまでに幾度となく教えられてきております。今も無償の赦しを信じています。
 それなのに、18章の悪い僕のように、罪の上塗りをしてしまう。それは無償の赦しを無償のままにしないときです。あの僕は取り込み詐欺のようなことをしました。友人の百デナリオンを無償で赦しませんでした。自分は王から一万タラントンを無償で赦されているのにです。私たちが行う赦しも、無償のもの以外にはないことをあのたとえは教えています。相手にオンを売らない。相手もよく反省しているようだから、赦して欲しいと頭を下げてきているからというので、赦してやろうというのではありません。無償の赦しですから、相手から報いを求めません、相手は、ちっとも反省していないように見える。対立したままで自分に腹を立てているかもしれない。こちらのことを赦そうとする素振りもない。それでも、赦そうとするのが無償の赦しです。教会に通う者の赦しは、この無書の赦ししかない。こちらは相手の如何を問わず、無償で赦すばかりです。
 それは、お人好しの理想か。そうではありません。この無償の赦しは、相手に捕らわれていません。自由です。自由な世界がそこに拡がっています。無償の赦しに一歩踏み出すことによって、私たちは自由な世界に生き始めます。もっと正確に申しますと、主イエス・キリストの赦しの自由の世界に巻き込まれていくのであります。
 反省どころか敵対していたのは、私たち自身の方です。それが、主イエス・キリストの十字架によって赦されたのでした。神様の無償の好意を体現しているのが、主イエスの十字架です。12節には「負い目」とあります。これは商業用語です。商取引において代金を支払わないこと、即ち、借金のことです。借りる相手があります。祈っていたらお金が降ってくるなどということはありません。お金を借りるにしても必ず相手があります。主は神様を相手とする借金・負い目を私たちに替わって返済してくださいました。けれども、だからといって私たちに借用書を回すようなことはされませんでした。借用書を破り捨ててしまわれるも同然でした。ジュネーブ信仰問答は、われわれが人をゆるすことは神の子とされたしるしだと教えます。み子イエス・キリストの柔和と寛容に倣うことだとも言います。み子の赦しは、ただの借金帳消しに終わりませんでした。私たちが、自由に赦すことのできる神の子とされることでした。み子イエス・キリストに倣う神の子となる力をも、十字架は与えるものとなりました。


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