札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
イエス出現」
マタイによる福音書3章13節〜17節
牧師 堤 隆
−2月24日 主日礼拝 説教より抜粋 −
「教会の声」説教(3月号)

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「そのころ、イエスが〜ヨハネのところに来られた(13節)」の「来られた」は直訳すると、「現れた」になります。主はヨハネのところに現れた。ヨハネから洗礼をお受けになるためでした。ヨハネ自身は「わたしの後から来る方は〜聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」とい言っています。この「火」は罪を裁くことのできる火のことでした。洗礼者ヨハネは自分たちは「石」であるという自覚までならできるけれども、その「石」が神の前で自らを誇り自己主張した罪までは、如何ともしがたいことを知っていました。
 しかし、それが、自分の後から来る方は、その罪を裁くことがお出来きになる。それだからこそ、洗礼者ヨハネは、自分こそあなたから洗礼を授けて頂きたいと言いました。これに対して、主は「今は止めないでほしい(15節)」と言われました。神の御子が、どうして罪を悔い改める洗礼を受けなければならないのか。主ご自身の発言の「止めないでほしい」はこれも直訳しますと「許してほしい」となります。そして、このように頼まれた洗礼者ヨハネが「言われるとおりにした」のですが、ここも直訳すれば「彼を許した」になります。主が許してほしいと言われたので、ヨハネは許した。これは言葉の一致ということだけに留まりません。神様の前での義しいことでしたから、主が先ず神様に対して従順であられ、ヨハネもまたそれに従ったことを告げています。義を満たすためならば、ヨハネにさえも許可を求める、この主の身の低さ。それは、クリスマスのとき現れた東方の賢者たちの姿勢と似ています。彼らは、生まれたばかりの赤子の主イエスをメシアと信じて拝しました。対照的だったのはヘロデ王です。赤ん坊の主イエスをライバル視して殺そうとしました。年齢も立場もありません。神様の前に従順と言うこと、それが義です。主イエスは神様の意志に徹底して従順な方として出現されました。ですから、天が開けました(16節)。神様と地上とが主イエスの従順によって繋がりました。天が開けて、御霊による交わりがこの地上に始まりました。徹底して神に従順なお方にたいして天から声がしました(17節)。主が神の子であるとの宣言です。もちろん今から神の子となるというのではありあmせん。徹底して神に従順である。これこそ神の子の姿であるという宣言です。ですから、「これはわたしの愛する子」と言われています。父なる神に従順であるのは、愛の関係による。そして、そのことを神は「わたしの心に適う」と言われます。これは直訳すれば「これを喜ぶ」となります。天が開けて御霊によって父なる神と交わる、それは愛の交わりのうちに神に喜ばれる存在となるということです。義のすべての成就とは、じつにこの神との喜びの交わりのことです。
 主イエスの出現によって、義のすべてが満たされ、神様との喜びの交わりが地上にうち立てられました。ころは、父なる神と主イエスとの間だけのことに留まりません。山上の説教において主は「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と語られました。平和を実現するという義を行う人も、神の子と呼ばれるようになると主は言ってくださっています。主イエスの出現によって、人間の中からも神の子が現れるようになるというのであります
 しかし、それは自動的にそうなるのではありません。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天からの声は旧約聖書のイザヤ書42章1節のことばに大変良く似ています。所謂「主の僕」の召命のときのことばとです。主の僕はイザヤ書53章になりますと苦難の僕となります。人の罪を黙って負う僕です。主の受洗のときの天の声は、主イエス出現をイザヤが預言した苦難の僕の出現であると言います。主イエスは、その通りに苦難を負われました。人の罪を十字架で担ってくださいました。わたしたちも私たちの罪が主の十字架に担われていることを見つめつつ、またその十字架によってわたしたちが神の子とされていることを確認しつつ歩んで参りたいと思います。 



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