札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「疑いを越えるもの
マタイによる福音書28章1節〜20節
牧師 堤 隆
−3月23日 復活節礼拝 説教より抜粋 −
「教会の声」説教(4月号)

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
 婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。
 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。して、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「しかし、疑う者もいた」(17節)
では、「中には疑う者もいた」ことになりますが、原文では「そこで彼らは疑った」(直訳)となっています。明らかにマタイの教会の人々のことが重ねられています。「イエスに会い、ひれ伏した」(17節)のに疑った。復活の主の顕現の時のことです。復活顕現ということは伝えられているけれども、それだけでは今の教会の人々には信じ辛くなっているという事情が窺えます。空虚な墓も同じです。墓の番兵は十字架の時と同じ立場にあったローマ兵たちです。ところが、百人隊長のような告白は番兵の口からは出ませんでした。彼らは「震え上がり、死人のようになった」(4節)だけでした。口も効けなかった。これと似ているのが二人のマリアたちです。「恐れながらも大いに喜び」(8節)とありますが、番兵たちに通じるものを半分抱えていたということです。お墓が空であったというだけでは喜び半分恐れ半分でしかないということです。
 しかし、これらのことをマタイは自分の教会の人たちのことを思いやって描いています。「お墓が空だった。復活のイエスに会った。」そう言われてもそれをどう信じたらいいのかと戸惑うマタイの教会の人々の問いに答えようとしています。そのマタイの答えが17節に集中しています。「そこで、彼らは疑った」という弟子たちは、二人のアリアほどの反応も示しませんでした。恐れもしない代わりに喜びもしない。マタイの教会の人々は、実際に空のお墓を見ることも、復活の主を肉眼で見ることも出来ませんでした。それで、疑うのも、信じられないのも無理はないとマタイは言いたいのではありません。復活ということに恐れも喜びも感じなくなっている人々に対して、それで良いはずがないと訴えているのだと思います。神様のなさっていることに無表情で、いや疑いを抱いてしまう。それで良いはずがないとマタイは言いたい。
 この17節でマタイが言わんとするところは、復活が過去の出来事となってしまって疑いが出てきてしまった者たちが、それでも「イエスに会い、ひれ伏す」ことができる、その道があるということです。「イエスは、近寄ってきて言われた」(18節)とあります。もうすでに十一人の弟子たちは主イエスとお会いしているにもかかわらず、主イエスが近寄ってきて語りかけておられます。明らかにマタイは、「甦りの主は疑う者に近づき声を掛けてくださる方だ」と訴えています。そして、復活の主に語りかけられることこそ、本当に復活の主にお会い出来る道だと言います。空っぽのお墓を見たとか見ていないとかは、もう問題ではない。復活の主を自分の目で見た見ないも問題ではない。復活の主にことばを掛けられて、聴いているかどうかということだけが大切なことであるというのであります。 
 このときの弟子たちは、「十一人の弟子たち」と紹介されています。ユダは死んでいましたから「十一人」です。しかし、これは人数の問題ではありません。十一人の弟子と言ったら、すぐに裏切り者を抱えていた弟子たちのことを思い浮かべます。ユダばかりではありません。筆頭の弟子と目されたペトロ、然りでした。他の弟子たちも、十字架を前にして逃げ去っていました。自分から弟子の立場を投げ出しました。おれをこの朝、天使は「弟子」(7節)と呼んでいます。神様は、御子を裏切り見捨てた者たちを、復活の朝もう一度、弟子と呼んでくださったのであります。そして、誰よりも復活の主ご自身が「わたしの弟子」(10節)と呼んでくださいました。兄弟は弟子以上です。復活の主は「わたしの兄弟」といって語りかけてくださいます。だから、そのおことばを聴くとき、疑う者であっても甦りの主にお会いすることが出来たのであります。
 この時の十一人の弟子たちのように、教会は甦りの主の弟子・兄弟とされています。みことばを聴いて、甦りの主にお会いして、そのみことばに応えて伝道していく者たちが教会です。甦りの主は教会の者たちにに「わたしは〜いつもあなたがたと共にいる」(19,20節)と約束していてくださいます。



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