札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「一つになって集まっていると
使徒言行録2章1節〜13節
牧師 堤 隆
−5月11日(日)聖霊降臨日・主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(5月号)

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。
2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

  ペトロの再創造、それは引っ込み思案な者がおしゃべりになったのではありません。2章に入って「満たされる」ことが繰り返し出てきました。「五旬祭の日が来て」(1節)の来ては「満たされて(直訳)」です。「家中に響いた」(2節)は「家中に満ちた」です。そして「一同は聖霊に満たされた」(4節)となっています。ペンテコステは満たされた日だと言います。1章で語られた約束が満たされた、満たされたと言うのが2章です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける〜わたしの証人となる」(1:8)と約束されていました。その約束がペンテコステに満たされたのだといいます。主イエスを裏切った罪人を再創造して、証人として語れるようにした。語る主体が代わったと言いうるほどです。罪人が罪人のままで語っているのではありません。ことばを無くした罪人が造りかえられて語り出しています。
 聖霊が満たされたからです。どう見ても常識では考えられません。一度は裏切っておいてその裏切った相手の弟子・使徒・証人となって語るなら二枚舌です。不合理なことに違いありません。このところを合理的に見れば、新しい葡萄酒い酔っていると見えます(13節)。「新酒に満たされて今っている」(直訳)。逆に冒頭の聖霊に満たされてというのは、いかにも不合理名ことになります。しかし、使徒言行録はこのように描いて、聖霊による再創造は合理的なものではない、常識では考えられないことだと言います。そして、聖霊が注がれて起こったことは不合理なことであったことを、むしろ強調しています。「人々は驚き怪しんで」(7節)、「人々は皆驚き、とまどい」(12節)は著者ルカが福音書の方で主イエスが奇跡を行われるときに用いた常套句です。
使徒言行録は明らかに、ここで奇跡が起こっていると言いたい。神殿の再創造も罪人の再創造も、聖霊のなせる業である、奇跡であると言います。
 聖霊が満たされて一同は「ほかの国々の言葉で話し出した」のですが、ここに民族名や地方名が出てきます。ここには世界的な広がりが暗示されています。エルサレムを取り囲むような表現になっています。ここからバベルの塔の逆転が起こっていると理解されます。ペンテコステはバベルの塔の克服、いやバベルの塔の罪の赦しといってもいいと思います。共通言語・翻訳力が与えられたのではなくても、あらゆる国・地方出身者が理解し合えるようにされた。それは、バベルの塔以前の恵みの現実を聖霊において回復して頂いたことになります。
 共通言語・翻訳力でなくても、理解し合えるようになった。それは超能力でというのでもありません。一同が「ほかの国々の言葉で語り出した」からです。これはペンテコステの教会に始まった大切なことです。ただの人間同士のコミュニケーションではありません。「神の偉大な業を語っている」(11節)、これが全世界に語り出されたのでした。これは今も続いています。私たちの聖書、これは日本語ですけれども聖書として読んで居ます。ヒブル語で書かれた旧約聖書、ギリシア語で書かれた新約聖書しか、聖書と認めないということはありません。イスラムのコーランはそういう訳にはいかないようです。翻訳を許さないのだそうです。しかし、聖書は世界中の言葉に訳されてなお聖書とされるのは、神の偉大な業を告げているからです。ですから、歯科中の言葉で読まれることは、ペンテコステにふさわしいことです。
 これは更に、多くの言語で語られると言うだけでなく、本当の奇跡は人間の言葉が神を証しする言葉として聴かれるところにあります。牧師堤の語る説教を、皆さんはみことばとして聴いておられます。堤がそう思いこませようとしているからではありません。一つとなって集まっているところに聖霊が満たされるからです。ではその偉大な神の業とはなにか。ペトロはあなたがたが殺したイエスを、神はあなたがたのメシア・救い主としてくださった(36節)と言っています。これほどの不合理はありません。しかし、奇跡です。救いの奇跡です。ユダの、ペトロの、そしてわたしたち一人一人を今も救う奇跡です。


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