札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「赦す権威
マタイによる福音書 9章1節〜8節
牧師 堤 隆
−6月1日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(6月号)

 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。
群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 主がご自分のことを人の子と称されるのは、これで二度目です。最初は8章20節で「人の子には枕する所もない」と言われました。これは安眠できないという嘆きではありません。人の子である私は、自分が枕する所もない地上にやってきた。すると地上は「神の子、かまわないでくれ」(8:29)といって、神の子を追い出しにかかりました。この流れの中で、主は「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃいました。それは人々が悪霊に取り憑かれて神の子をを追い出そうとするので、ここで人の子の働きを果たすという宣言です。悪いことを思いめぐらす律法学者たちのもとで働く、赦しが地上にあるとは思えないという者たちのもとで働くと言われました。律法学者性というものを思わしめられます。赦しが地上にあるとは思えないということを、私たちはぬぐいがたく抱えているのではないでしょうか。主の祈りの講解をしたときにお話ししましたが、主の祈りにはわだかまりを覚えてしまう一節があります。「わたしたちも〜赦しましたように」というところです。なぜ躊躇するのか。自分の胸に手を置いてみればすぐに分かります。自分はいつでもだれのことでも赦しているか。たじろがざるをえません。赦せないでいる自分がそこにいます。それなら、赦せない者は赦されないのか。そういうわだかまりを抱えてしまっているのではないでしょうか。しかし、それであってはそれこそ実は、私たちの内なる律法学者性ではないでしょうか。赦せっこないと言うことは、一見誠実そうに見えます。赦せていない自分に正直だからです。けれども、悪いことに正直であることが誠実であるはずはありません。赦せっこないと言い張るなら、地上で赦す権威はないと言う律法学者たちと同じになってしまいます。
 さて、主は中風の人を連れてきた人々の中に信仰を見て取られました。マタイはこの人々の創意工夫や熱心について何も語りません。しかし、主は中風の人を連れてきたことだけで、信仰を見て取ってくださいました。マタイはここの所を言いたいようです。「人間にこれほどの権威を」(8節)というところの「人間」は、文脈としては主イエスのことを指しています。ところが、この「人間」は文法的には複数形で記されています。「人間たちにこのような権威をお与えになった神を」が直訳になります。ここにマタイの教会が顔を出していると説明されます。中風の人を連れてきた人々も、ここの人間たちもマタイの教会の人々と重ねられていると言います。弟子の信仰という顔をひょっこり出させて訴えている。人間たちに、人を赦す権威が与えられている。人を赦せるというところが弟子たちの信仰の特徴であると言っています。教会の人間たちが、自分たちの持ち合わせている能力によって、即ち自分の堪忍袋の大きさで人を赦すのではありません。人の子・主イエスが今なお地上で持ち続けていてくださる赦しの権威を、人間たちは地上の教会において委ねられているのであります。赦しの権威は、空中に浮かんでいるような得たいのしれないものではありません。人の手の届かない所に鎮座ましましているものでもありません。地上の私たちの教会が具体的に委ねられているものです。ですから、私たちはこの礼拝において罪赦されますし、また、この礼拝において赦す権威も委ねられます。委ねられる赦す権威は、ですから手の届かないような大仰なものではありません。中風の人を主のもとに連れてくるようなことです。主はそこに信仰を見出し、赦しの権威を授けてくださるのであります。
 このところに出てきます赦しについての問答で、赦しは言葉で言うぐらいはいくらでも言えるから易しいという解釈があります。しかし、主は「子よ、元気を出しなさいあなたの罪は赦される」(2節)と言われました。これは単に「頑張れ」と言われるのではありません。「安心しなさい」とか「勇気づけられよ」と言っておられます。「子よ」とわが子を呼ぶように呼びかけておられます。いま、わが子が立てないでいる。それを慰めるには赦ししかないからです。 


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