札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「振り向いてくださる主イエス
マタイによる福音書 9章18節〜26節
牧師 堤 隆
−6月29日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(7月号)

イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。このうわさはその地方一帯に広まった。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 娘は死にそうな状況ではなく、「たったいま死にました」ということでしたが、主はぱっと反応せいてくださいました。辛い悲しみの中にある者に対して素早く反応してくださいました。そういう緊張関係がここにはあります。マルコ福音書の期待と緊張というのとはまた別の緊張関係です。この指導者と主イエスとの間には、ピーンと張ったものが感じられます。
 すると、そこに長く患っている除せが登場します。マタイはこれで主と指導者との緊張の糸が切られたとは言いません。主とこの女性との間にもピリッとした関係が成り立ったという言い方をしています。この女性が主の服の房に触れると、主はさっと振り向いて、この人に声を掛けられました。マルコ福音書にあるような、群衆に紛れて、当初は誰が触れたのか分からなかったということなどは一切省かれています。ここでも、主はこの女性に対して素早く反応しておられます。「ある指導者」に対するのと全く変わりありません。 この女性は「後ろからいえすの服に触れた」(20節)とあります。出血を伴う病気は宗教的に汚れていると見なされていたことに関係があります。当時は、汚れていると見なされれば、社会的に隔離されました。人とまともにおつき合いすることは許されませんでした。この女性も、そこの所はよく分かっていたものと思われます。自分は世間の習わしから外れたことをしていると自覚していたはずです。それでも、止むに止まれずという思いが、「後ろから」という行動になりました。彼女の並々ならぬ想いが、ここに滲んでいます。
 この女性にも主は素早く反応されました。「何ということをする」とはおっしゃいませんでした。「娘よ、元気になりなさい」(22節)とは、決して「病は気からというではないか。だから元気を出しなさい」と言っておられるのではありません。この「元気になりなさい」というのは、9章の最初にでてきます中風の者に向かって主が掛けられたおことばと全く同じです。9章2節に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われたのと同じです。あのときも申しましたが、「元気を出せ」というのは、あまりふさわしくないように思います。これは、安心とか勇気を表す詞が当てられています。「安心しなさい」か、「勇気づけられよ」と主は言われた。慰めの詞です。「元気を出せ」と号令を掛けておられるのではありません。
 主は「ある指導者」の家に向かっておられましたのに、「後ろから触れる」女性に対して振り向いてくださいました。
 この女性が「服の房に触れた」ことについて迷信的であるとか、呪術てきであると見る向きがあります。どうしてそうしたのか「この方の服にさえ触れば治してもらえると思ったからである」(21節)とありますが、これは目の前を進まれる主を見て、咄嗟にそう思ったということではありません。ここは直訳しますと「思い続けていた」となります。ずっと思い続けていたということです。その願いは、これはもう祈りです。それが、表に現れ出て触るという行為となりました。その祈りに足して、主は素早く反応して振り向いてくださいました。主には第一の目的地がありました。死んだ少女に手を置くために進んでおられました。しかし、振り向いてくださいました。わたしたちは、ときにこんなことをお祈り出来ない、こんなささやかなことで神様を患わすことは出来ないといって、祈らなくなります。しかし、主イエスの方ではちっともそんな風には思っておられないのであります。どんなに先を急いでおられても、祈る者がいれば振り向いてくださる。もうそれだけでも慰めになります。祈りによる交わり、祈りから生まれた主との人格的交わりは、決して迷信的・呪術的なものではありません。
 主が家に着かれると、笛や騒ぎで絶望を埋め合わせようという当時の葬儀がはじまっていました。それを主は「あちらへ行きなさい」(24節)と言われました。直訳では「場所を空けなさい」となります。主と交わるための場所の確保を求められるのでした。 


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