札幌北一条教会 
 
      北一条教会トップページ | 今月のみことば | これまでのみ言葉 | 今月の礼拝演奏会・特別集会おしらせリンク       


今月のみことば
「失われた羊のところへ
マタイによる福音書10章5節〜15節
牧師 堤 隆
−7月27日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(8月号)

 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 主はご自分と同じことをしてくるようにと言って12人を遣わされました。それはただ真似事をしてこいと言われたのではありません。9章36節に「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて居るのを見て,深く憐れまれた」とありました。ですから、12人は、ただ主の口から出た言葉をふれ回るのではなく、主が深く憐れんでくださることを宣べ伝えて歩くよう命ぜられています。8節に「ただでうけたのだから、ただで与えなさい」と言われています。主は12人に「あなたがたが受けたもの」を与えてきなさいとおっしゃっています。みことばを受けて、自分がそのみことばで生かされた。だったら、そのみことばが自分を生かしていることを身をもって示して来なさいと言われるのです。「天の国は近づいた」とは、失われた状況の中に神様が来てくださっているということです。病、死、差別、神に背かせる精力(8節)に天国は近づいた(原文は完了形)。
 「ただで」ということが繰り返されていますが、なにか打算的なものに対する警戒が命じられているようです。この「ただで」という元の詞は「賜物」という意味の詞です。賜りものですから、お金を払って買えるものではありません。それで、「ただで」ということになります。打算的にするなという意味もあります。はっきり申しますと、「商売にするな」と主はおっしゃっているわけです。神様のために働く者は神様が養ってくださるからです。
 弟子たちが遣わされるときの指示は、他の福音書が告げるところよりも、徹底しています。お金のことを言うのに、金貨、銀貨、銅貨を持っていくなと言います。びた一文持っていくなということです。「履き物も杖も」というところはマルコ福音書では、この二つだけは持っていってよいことになっています。それが、マタイでは禁じられています。マタイは無一物でということを全面に出しています。12人が用意して良いことはただ祈ることだけです(9:38)。ある人が、ここで貧しさという福音があるのだと言っています。それは「清貧に甘んずる」ということとはまた違います。失う、砕かれる、自分は貧しくなってします。しかしそこで得るところがある。負け惜しみではなく、信仰において起こることです。失われた状況。健康が失われる、肉体の命でさえ砕かれる。そのとき、ただ貧しくなるのではない。神は何もしてくださらないといって、貧しさに沈み込むのではない。信仰はそこで、「天の国は近づいた」と言います。今こそ、神様が近づいてきてくださっている。そう信じることが出来る。病の中にも、死の床にさえも神は入り込んで来てくださる。普段、忙しさにかまけて祈りを忘れがちであった人が、病気になってようやく祈り始めるということがあります。神様はそんな人のことを「苦しいときの神頼みなんかして」と言って退けられるでしょうか。神様はそんなケチ臭いことはおっしゃらないと思います。失われた者に近い神様です。
 伝道は私たちが高いところから、低いところに哀れみを垂れるようなものではありません。敢えて高みということを言うのであれば、高みにあることに全くふさわしい神の子が、低さの極みに降って来てくださいました。そえが、賜物でした。伝道は神様からの賜物を賜物のままに、隣人に伝えることです。・・・
 さて12人の派遣は具体的のことですから、たちまちどうやって食べて寝て活動するのかということになります。主は「ふさわしい人はだれか、よく調べなさい」と言われます。平和にふさわしい人かどうか、よく調べる。12人を迎え入れ、みことばに耳を傾けるところに平和が与えられるのですから、この平和は神様との平和です。
 12人の派遣は、神の憐れみを持って行くだけです。その時、見くびられてはいけない。十字架上の主に対してさえ十字架から降りて見ろと言った人が実際にいたわけですから、見くびる人はいつもいる。そんなときには、足の塵を払い落とせと主は言われます(14節)。裁くではなく、悔い改めを求めよと言われます。主はどこまでも失われた者を求めていてくださいます。


 北一条教会トップページ         これまでのみ言葉