札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「水一杯の愛
マタイによる福音書10章31節〜11章1節
牧師 堤 隆
−8月31日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(9月号)

 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。
 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 37節で主が言わんとしておられることは「先ず私のことを愛してごらん」ということです。「そのままでは愛し抜けそうもない家族を愛そうと思うのなら、先ず私のことを愛してごらんなさい。いつでも、家族の絆を憎しみに変えてしまいそうな家族の者を愛そうとするなら、先ず私のことを愛してごらん」と。先ずは主イエスを愛する。それは、どうにも愛しにくいけれども努力して愛することではないはずです。逆に姿や気持ちに魅せられて好きになることでもないはずです。自ずから愛したくなる。主を愛さなければ生きていけないということだと思います。やはり十字架の主を愛するということです。主はご自分のことを憎んでくるような者を愛されて十字架につかれました。そういう主だからこそ、私たちは愛さずにはおれません。ここにしか、現実的な真の愛はないからです。絵に描いたような美しいばかりの愛は、お話としてはあるかもしれません。しかし、私たちが実際に自分のものとできる愛ではない。主が「自分の十字架を担え」と言われるとき、わたしが愛したように愛しなさいと言っておられます。家族の者に憎まれても尚愛する。愛を比べて崩れてみたり、愛の仮面を被って取り繕うしかない家族を愛そうとするなら、十字架を担うしかない。十字架の主を愛して、その愛に生きるしかありません。...
 自分の十字架を担って命を見出している者は「あなたがた」(40節)のことだと言ってくださいます。弟子たちのことです。伝道に遣わそうとしている弟子たち。41節では預言者、正しい人と言い換えられています。マタイの時代の伝道者たちがこう呼ばれていましたから、重ねたようです。それなら、この「あなたがた」は私たち札幌北一条教会の者のことでもあります。... 主に遣わされた者のことが、更に「この小さな者」(42節)と言い換えられています。主イエスは他の所で、私たちキリスト者が小さい者を受け容れることを教えておられますが、ここは違います。私たちキリスト者が「小さい者」と呼ばれています。これを言うのに「ミクロ」という詞が当てられています。ちっぽけな者です。伝道者はちっぽけな者となって伝道する。「水一杯でも飲ませてくれる人」の側から考えてみますと、大きい者、力のありそうな者だからというので、水を与えるのではありません。普通であればそうなのかもしれません。大きい者・力のある者
なら、何かが期待できるというので与えるかもしれません。しかし、ちっぽけな者に水一杯与えたところで何もお返しは期待できません。かといって、小さい者は可哀想でならないから、哀れみをさそうから、水一杯でも与えようというのでもありません。ある人が、この「小さい者」というのは、立派とは言えないキリスト教徒のことだと解説していました。やはり、水一杯に対していくらも支払えそうもない者です。 しかし、そんな者に水一杯でも飲ませようとする。もちろん、何のお持て成しもできませんが、水一杯でもといって差し出すのではありません。熱いこの地方のことです。「冷たい水」を出すためには、素焼きの瓶に入れて準備しておかねばなりません。そうしておかなければ、水はたちまち生ぬるくなってしまいます。また、水運びという重労働も必要です。水一杯しか出せなくても、冷たい水一杯には心がこもっています。なぜ、ちっぽけな者にそれほどの心を込めて冷たい水一杯を飲ませようとするのか。主ははっきりと「わたしの弟子だという理由」からだとおっしゃいます。この弟子の語ってくれる先生、即ちイエス・キリストがこの弟子を遣わしている。神がそこに働いている。そのようにして、この弟子は神の愛を運んできてくれた。だから、さあ冷たい水を一杯お飲むのみくださいといって、神の愛に応えようとするのであります。神の愛に対して、水一杯では不釣り合いかもしれません。しかし、冷たい水一杯には、キリストの愛に応えて、また、人を愛そうという愛が込められています。その水一杯に込められた愛は、やはり大きいに違いありません。私たちも水一杯の愛を受けられるよう伝道に遣わされてまいりたいと思います。


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