札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「安息日の主
マタイによる福音書12章1節〜8節
牧師 堤 隆
−9月28日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(10月号)

 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

  主は安息日に麦畑を通って会堂に向かっておられました。安息日礼拝を守るためでした。こういうところを読みますと、イエス様も今の自分たちと変わらず週ごとの礼拝生活をきちんと守っておられたのだなと思われて何だかうれしい気持ちになります。けれども、実際のところは逆です。イエス様がこのように安息日礼拝を守られたから、今のわれわれもイエス様に倣って礼拝生活を続けている。こちらが、実際の順序です。
 私たちの礼拝は、本日もそうですが、10時15分から始まります。教会によっては10時10分から、20分からというところもあります。世の中ではこんな微妙な開始時刻を定めているところは、まずないと思います。10時からとか11時からとした方がすっきりします。それなのに微妙にずらすのは、日本の教会の礼拝に対する姿勢を表しています。この礼拝の前には日曜学校の礼拝をしています。その礼拝に仕えた日曜学校教師の方々が、大人の礼拝に間に合うようにという配慮が、10時10分、15分、20分となって現れたのでした。礼拝に出席するにはそれにふさわしい姿勢・あり方がある。日本の教会はこれを踏み外さないように努力してきたのであります。ささやかなことではありますが、主が礼拝を重んじられたところを受け継いできたのだと思います。・・・
 主は11章の終わりで「休ませてあげよう〜安らぎを得られる」とおっしゃっていました。そして12章に入ると「そして、その時、その安息を得る日に」という具合につながっています。主は神の戒め・御心としての安息を与えると言われました。ですから、それは具体的に安息日にあずかることができる。ところが、御心として安息日に、弟子たちがふさわしくないと言われたものですから、主はダビデの故事でお答えになりました。サムエル記下21章にあることです。ダビデは祭司からパンだけではなく、ゴリアトの剣も受け取っています。その剣は少年ダビデがまだ羊飼いをしていたときに、石投げ一つで倒した難敵ゴリアトのものでした。ダビデは、神に逆らう者と戦うのだから自分には神がともなってくださる。だから、石投げだけで勝てると言い、そのとおり勝利することができました。その時、ゴリアトから奪って、ゴリアトの首を刎ねた剣を、このとき祭司から返してもらいました。ダビデはこの時すでに油注がれて、サウルおうに代わる王と指名されていました。神様によってです。サウルは自分から王権が移ることを恐れて逆恨みをしてダビデの命を狙いました。そのためにダビデは身一つで逃げなければなりませんでした。祭司のところでパンと剣をもらったのは、その逃亡の最中においてでした。ダビデが祭司からパンと共に剣を受け取っているということは、サウルに負われる中にあっても神が共にいてくださることを確認することでした。ダビデは神様に仕えるために、パンとゴリアトの剣を得たのでした。この時、実はダビデは一人の供も連れていませんでした。それを主はここでお話になった時には、供の者もいたかのように語られました。明らかに、ダビデの供にご自分の弟子たちを重ねるためです。
ダビデの子イエスに従う者たちも、神の御業に仕えるために安息日に必要なものは満たしていただけることを主は告げておられます。・・・
 ファリサイ派の人々が、神が憐れみを求めておられると知っていたら、こんなことはしなかったろうと、主は言われます。主はファリサイ派の人々に憐れみを求めておられます。もちろん神は憐れみ深いお方です。だから、その憐れみ深い神様にふさわしいのは、人の側でも憐れみ深くなることです。安息日はなにより神の安らぎを得る日です。主から憐れみを受けたなら、自分もまた誰かに憐れみ深く接するようになる。「人の子は安息日の主なのである」(8節)と主は言われます。今も安息日の主は主イエスであることに変わりありません。主は今日も、柔らかい軛、すなわち、憐れみを与えていてくださいます。そうして、私たちにも憐れみ深く生きられるようにしていてくださいます。安息日の主を仰いで、私たちも憐れみの第一歩を踏み出したいと思います。


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