札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「我を忘れて
マタイによる福音書12章22節〜32節
牧師 堤 隆
−10月19日(日)主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(11月号)

 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」を主が癒しておやりになりますと、群衆は賞賛しファリサイ派はけなしました。方やダビデの子が悪霊を追い出したといい、方や悪霊の頭の力で追い出したと言いました。私たちは悪霊と聞きますと、狐憑きや曖昧模糊としたものしか思い浮かべません。しかし、聖書が悪霊と言いますとき、何よりも、神様に逆らうもの・神様に敵対するもののことを言い表しています。これは古代人に限ったことではありません。時代を超えていつの世にも絶えたことはありません。今の私たちでも神様に逆らう気持ちを持ったことがないとは言い切れません。自分の不安や辛さが続きますと、神様は何をしておられるのだ、私のことを助けてはくださらないのかといって疑い始めてしまいます。だからこそ、主は悪霊の危険から解き放ってくださるのでした。「群衆は皆驚いて」(23節)とありますところの「驚いて」という詞はエクスタシーの語源となったものです。自分の外に出てしまう状態を言います。我を忘れてしまう様を言います。群衆は救い主が来ているのではないかといって我を忘れ主イエスを賞賛しましたが、ファリサイ派は自分の殻から一歩も出られませんでした。
 そんなファリサイ派のことが、わたしにも分かるような気がします。この世では人を救うよりも痛めつける力のほうが目についてしまいます。正しさよりも悪が力を振るっているように見えてなりません。ファリサイ派ならずとも、こんな世においそれと救い主が現れようはずはないと思えてしまいます。そんな暗い悪に満ちているとしか見えない世に救いの力などそう易々と来るはずはないと思いこんでいるファリサイ派に向かって、主は神の国はあなたがたのところに来ているのだと言われました。強盗のたとえをもって、強い人から略奪するように激しく迫って来ていると言われます。神を疑わせる悪霊の虜になっているファリサイ派の人々を奪い返すと言われるのでした。
 主は悪霊の虜になっているファリサイ派の人々を奪い返そうと、すでに悪霊相手に戦っておられます。救いの力は及ばないと思いこむファリサイ派の目を覚まさせ、神の国に招いていてです。主は真剣です。論争に勝つか負けるかという真剣さではありません。ファリサイ派の人々を悪霊の下から奪い返せるかどうかの瀬戸際にあるという真剣さです。「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜は赦されない」(31節)というところに主の真剣さがよく現れています。ところが、この赦される罪と赦されない罪があるとの主のお言葉が、聞く者たちの難問となりました。赦されない罪があると言われたら、気の弱い人はもしかしたら自分は赦されないのではないかと心配になる。逆に、気の強い人は神にも赦せない罪が有るというのなら神の力に限界がある、全能の神ではなくなると考えてしまう。しかし、主は人を不安にさせようとか、神様を制限しようとして、このように言われるのではありません。神様に限界があるのではないことをことわるために、ご自分に言い逆らってもいいからと言っておられます。しかし、聖霊にだけは言い逆らってほしくないと切々と訴えられます。悪霊に取りつかれた者、罪人、神に逆らう者たちを奪い返したいからだと主は言われます。やはり、主の真剣さからの発言です。その点では、ファリサイ派の人々をサタンの手から真っ先に奪い返したいと思われたに違いありません。赦される、赦されないと訳されている詞には、「放任する」とか「うちやっておく」という意味があります。聖霊に言い逆らう者はそのままに放っておかれはしないと主は言われます。それほど迫ってくださる。この圧倒的な聖霊の力に迫られたら、もう自分の殻に閉じこもっておれません。救い出されたことで、我を忘れて神様を賛美せずにおれません。本日は創立記念日です。私たちの教会の歴史も紆余曲折と言わざるをいません。しかし、そのたびに、聖霊の力が激しく迫り導いてくださったと言えます。先達はその度に、我を忘れてて神を賛美し、教会に仕え続けました。それに続く者たちでありたいと思います。


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