札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「主を待ち望んで、雄々しくあれ
詩編27篇
牧師 堤 隆
−11月30日(日)待降節第一主日礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(12月号)

【ダビデの詩。】
 主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。
 さいなむ者が迫り わたしの肉を食い尽くそうとするが わたしを苦しめるその敵こそ、かえって よろめき倒れるであろう。
 彼らがわたしに対して陣を敷いても わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても わたしには確信がある。
 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。
 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ 幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ 主に向かって賛美の歌をうたう。
 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き 憐れんで、わたしに答えてください。
 心よ、主はお前に言われる 「わたしの顔を尋ね求めよ」と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。
 御顔を隠すことなく、怒ることなく あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください 見捨てないでください。
 父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。
 主よ、あなたの道を示し 平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。
 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が わたしに逆らって立ちました。
 わたしは信じます 命あるものの地で主の恵みを見ることを。
 主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 待降節はアドヴェントとも呼ばれますが、アドヴェントには「迫ってくる」とか「現れる」という意味があります。アドヴェンチャーの語源でもあります。待降節は、待つことだけでなく、冒険という意味も併せてあるようです。詩編27篇を書いています詩人も、そこのところを強く意識しています。「主を待ち望め」という句が、「雄々しく、心を強くせよ」という句を前後で取り囲んでいます。待つことが冒険の生き方を包み込んでいます。詩人は、主を待つのは「まだか、まだか」といらいらしながら待つのでもなければ、棚ぼた式にぼんやり待つのでもない、冒険者の勇気を持って待つのだと言います。(略)
 普段、私たちは何か先行きが分からないようなとき、それでも敢えて心を決めなければならないとなりますと、「冒険だけれども、やってみよう」という決断の仕方をします。自分の力ではどうにもならないことは、いくらでも起こってきます。そのときどうするかという話です。思いがけないことに見舞われたとき、どうするか。「なるようになれ」という考えも当然出てきます。しかし、そこで流されるままというのではなく、一度踏みとどまって「冒険だけれども、やってみよう」と心を決めることも出来ます。冒険の生き方と言えます。自分の外側で思いがけないことが起こるとき、それでも「やってみよう」というのですから、自分も変わろう・変えられようとします。何かを期待して・信じて、そうします。
 27篇はそこのところを、テーマにして歌にしています。前半で神の救いを高らかに歌い、信仰の勝利を歌い上げているのですが、後半では一変して神に向かって嘆き始めます。この歌の流れは、詩編の中では珍しいものです。普通は、最初に大いに嘆いています。それが、信仰の格闘を経て神を再発見し、ついに神をほめ讃えるに至ります。ところが、27篇の流れは、信仰の勝利から嘆きへと移って行きます。ここに信仰者のひとつの実際の姿があると言いたいようです。普段から信仰をないがしろにしている訳ではない。大切に思っている。救いは神様による以外にないとも信じている。ところが、それでも信仰の揺れということが起こります。信仰の戦いに疲れてしまうこともあります。信仰を抜きにして来たからではなくて、むしろ信仰を通そうとするからこそ労苦を抱え込むことしばしばです。詩人はそこのところを歌にしています。それが、勝利から嘆きへという歌の流れとなって現れ出ています。そんな中で、「主を待ち望め、雄々しくあれ」に至っています。揺れ、労苦、疲れの中で冒険に生きる勇気を訴えます。(略)
 さて、この「雄々しくあれ、心を強くせよ」という一句は、他の聖書の箇所で集中して現れるところがあります。出エジプトをしてきたイスラエルの民がこれから約束の地に入るというときのことを描くのに、この一句が集中しています。出エジプト以来、イスラエルの人々はモーセに率いられて歩んできました。ところが、約束の地を前にしてモーセはそこに足を踏み入れることなく世を去らねばならないと神に言われます。そこで、モーセからヨシュアへの指導者の交代がなされます。「雄々しくあれ、心を強くせよ」は、そういう変動の時代の人々に向かってひたすらに語りかけられています。一例をあげますと、申命記31 章6〜8節です。「あなたの神、主はあなたと共に歩まれる〜主御自身があなたに先だって行き、主御自身があなたと共に折られる。」モーセがヨシュアに「強く、また雄々しくあれ」と言うからには根拠がある。神が先立ち、共ないたもう。不安と危機の中にも神はいてくださる。だから、勇気を出せる。とすれば、この勇気は神から与えられる勇気ということになります。(略)
 詩人は「待ち望め」と言いますが、このところの言葉は「綱/ひも」を語源としています。「雄々しく」は「しっかり」が直訳です。また、「強く」は「固く」とも読めます。そうしますと、この14節は「神様に絡みつくようにして、固く確信を握りしめよ」と言っていることになります。不安・危機の中でも、神に固着する。それが勇気を与えられることに至ります。


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