札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「祝福の食卓
マタイによる福音書14章13節〜21節
牧師 堤 隆
−2月1日(日)礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(2月号)

 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 夕暮れになり、弟子たちは群衆が自分たちで食べ物を買いに行くように解散させてくださいと提案しました。すると、主はその「必要はない」(直訳)、「あなたがたが〜与えなさい」と言われました。弟子たちには群衆を突き放したようなところがありましたが、主はそれを問題にされました。弟子たちはこう言われる主に「ここには五つのパンと魚二匹しかありません」と否定的な返答をしました。すると主は「それをここに持ってきなさい」と言われました。この主のお言葉には訳出されていない大切なひと言があります。原文では「ここに」の前に「私に」ときちんと言われています。原文のままに読みますと「あなたがたは持ってきなさい。私のところに、ここに、それらを。」となります。この主のお言葉には、「あなたがた」と「私」の関係が前面に出ています。主は、こんな人里離れた荒れ野のような所で食べるに事欠いたら、私とあなた方との関係からして第一にすべきことがあるだろう。あなた方の持てる物を私の所に持って来るべきではなかったのかと言われるのでした。もちろん、私が真っ先に食べられるようになどと言われるのではありません。困難に出会ったとき、これではどうしようもない、取るに足りないと思われるものであっても、主の所に持ってくる。それが第一になすべきことだと、主は教えてくださるのでした。私たちは時に、自分一人食べていくだけで一杯一杯だと思って何かを抱え込んでしまいます。あるいは、自分の分以上に持っていても、みんなの分には足りないと思って何もしないかもしれません。物やお金に限りません。主を中心に据えた交わりの中に・あなたがたと私の関係の中に、困難な事柄を持ってきなさいと言ってくださるのであります。弱く乏しい弟子たちが、それでも群衆の必要を満たせるようにしてあげようと言ってくださるのでした。
 取るに足りなくても、すべてに行き渡るとも思えなくても、それでも飢え乾いている者たちを何とかしたいと思うこと、その思いの大切さを主は教えてくださるのであります。自分の持てる僅かのものを主のもとに差し出すことが求められています。他者のことを思いやり、自分の持てるところを差し出し、祈っていただく。これら一連のことを、あなたがたはするのだと主は言われます。私とあなたがたとの間では、それが出来ると言ってくださいます。こんなものでも、こんな私でも用いてくださいと言って差し出し、祈ることが許されています。本日は2009年度の教会総会をこの礼拝の後に行います。教会の会議は礼拝と同じく、何よりも神様の御心を聴くときです。今このとき、神様が私たちにお求めになっているのは、私たちの抱える具体的な困難・問題を主との関係の中に持ち込むことです。それを許していてくださいます。
 主は、弟子たちが差し出したものをお用いになられました。しかし、パンそのものを祝福されるのではありませんでした。「天を仰いで」祝福されました。その天は、神様がおられるところです。ですから、神を仰いで「賛美の祈りを唱え」られたことになります。この「賛美の祈りを唱え」は一字で「祝福する」(直訳)です。神様に向かって祝福するというのではそぐわないので、このように訳されたようです。しかし、主は神様を祝福しておられる、ほめたたえておられます。「天の神様あなたは、弟子たちのこの僅かなものでも、献身のしるしとしてお用いになってくださいます」といってほめたたえられました。さらに「私は弟子たちから受け取りました。これを御心のままにお用いください」と祈られたうえで、そのパンを弟子たちにお与えになりました。ここに奇跡が起こりました。サタンが求めるような手軽な奇跡ではありません。天の父なる神が主イエスの祈りを聞き入れて引き起こしてくださった奇跡です。
 主が取りなし祈ってくださるとき、奇跡が起こりました。そもそもの始まりは「大勢の群衆を見て深く憐れ」(14節)たからでした。私たちも主の憐れみに始まる祝福の食卓に与り、ますます主にお仕えして行きたいと思います。


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