札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「神の言葉か人間の戒めか
マタイによる福音書15章1節〜20節
牧師 堤 隆
− 2月22日(日)礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(3月号)

 そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。
15:4 神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」
それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

 「昔の人の言い伝え」という所を直訳しますと「長老たちの伝承」となります。私たちの教会にも長老が立てられています。もちろん、老人のことではありません。教会を指導し、治める務めに召されている方々です。この長老職は旧約の神の民イスラエルに与えられたところから来ています。教会は新しい神の民ですから、イスラエルの民を長老が指導したように、教会も長老によって指導されるようになりました。長老制・長老主義の教会です。「長老たちの伝承」は、長老個人の教えではなくて、あくまでも神の御心を告げる律法の教えが中心とされました。それだけに内容を読み取るという点で解釈が生まれてきました。律法を自分たちの日常の暮らしに当てはめるために解釈がなされました。神の言葉を暮らしの中にというのが、イスラエルの長老たちの精神でした。ところが、イスラエルの長老たちの教えとファリサイ派の人々との解釈の間にズレが生じてきていました。主はそれを見抜いて「自分たちの言い伝え」でしかないではないかといわれました。−略−
 「父また母に向かって『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は」(5節)、これはいかにも宗教熱心な人の言いそうなことです。だからこそ、親よりも神様を優先するというのですから、ファリサイ派もこれを勧めたものと思われます。
「神への供え物」と言ったら、これは本当に供え物にしなければなりません。自分の懐にしまったままにしておくことは出来ません。問題はいかにも宗教熱心と思われるところで、神の言葉がないがしろにされているところにありました。神の言葉を暮らしの中にというイスラエルの長老たちの教えを曲げてしまいました。日常生活を神の言葉から引き離してしまいました。父母に限らず、人を愛するのは中心的な聖書の教えです。主は敵をも愛しなさいと言われました。口では立派な教えだと言いつつも、心の内で「自分にはできっこない」と思うなら、偽善となります。ファリサイ的です。−略−
 主は口に入るものは人を汚さずと教えられました。これはファリサイ派が食事の前の手洗いを問題にしたからでした。(2節)あなたたちは汚れた手で食べたら自分を汚すと思っているようだが、そんなことはないのだとおっしゃいます。この「汚す」という語は、「共有」を語源にしているといいます。コイノニア(交わり)の動詞形でコイノオーです。たとえば、市場に出かければ、そこには異邦人もいます。市場ですから売ったり買ったりします。その時どうしても異邦人と接触することにもなります。その触れた手で食べれば汚れることになると考えて食前の手洗いとなりました。けれども、主は人と交わるから自分がけがされるのではないとはっきり言われます。そんなことであれば、いつでも何でも、悪いのは人の所為ということになります。そうなりますと、自分が悪いと分かっているときですら、それでも相手も悪いと言い出します。そのような者に向かって、主はいつでも人の所為にするな、被害者意識を振るかざすことばかりを考えるなと言われます。「口から出てくるものが人を汚すのである。」自分が加害者になっていることを考えてもみないのかと迫られます。−略−
 父母を敬わないのは、神を敬わないことになります。「父母をののしる者」(4節)は、「呪う」(直訳)と書いてあります。父母を呪えば、神を呪うことになる。神を敬わなければ、父母も敬えない。そして、他者を汚すことにもなります。(19節)汚すということは、水で洗ったところで何とかなるようなことではありません。汚すのは、敬わないこと、愛さないことだからです。
 1節に「そのころ」とあります。主が大勢の病人を触ってお癒しになっていたころのことを指しています。もちろん、主は魔法や呪術で触れて癒されたのではありません。人々が触れると汚れると見なしていた代表のような病人であったから自ら触られました。主に触れて癒されることは私たちにも出来ます。主に触れていただいて、心から汚れている者が癒されることを信じたいと思います。そこに私たちの幸いがあるのですから。 


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