札幌北一条教会 
 
      北一条教会トップページ | 今月のみことば | これまでのみ言葉 | 今月の礼拝演奏会・特別集会おしらせリンク       


今月のみことば
「民衆の十字架
ルカによる福音書23章26節〜43節
牧師 堤 隆
− 4月5日(日)礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(4月号)

 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

  主イエスはメシアなのに、弟子たちに裏切られ、無理解な為政者たちによって殺されたということばかりをルカ福音書は言うのではありません。主が罪人と同じになられたのは、メシアとして罪人の十字架を負われることであったのだと申します。「イエスを十字架につけた。犯罪人も〜」(33節)というのはこのためです。メシアがメシアとして、罪の罰を受けられた。十字架に居合わせた者たちは、みなメシアは十字架につくはずがないと言いました。それを、それぞれに、救いは権威だ、救いは力だ、救いは要領だなどとうそぶきながり言いました。神は十字架につかない、王は十字架につかない、救い主は十字架につかないと。これでは27節に出てくる嘆き悲しむ婦人たちと同じです。(主はこの婦人たちをたしなめてられました。葬儀に雇われて泣くことを商売にしている「泣き女」と変わらないからでした。)上辺だけの見え透いた儀式として嘆き悲しむ婦人たちは、本当には泣いていません。それで、主はわざわざ「婦人たちの方を振り向いて自分と自分の子供たちのために泣け」(28節)と言われるのでした。
 主が婦人たちに自分のために泣けと言われますのは、救いを求めもしないことを悔いて泣けということです。34節に「そのとき」とありますが、これは「しかし(直訳)」です。「しかし、言い続けておられた」です。しかし、主は祈り続けておられたのですが、何に対して「しかし」なのか。端的にそれは、「イエスを十字架につけた」ことに対してです。彼らがなにをしているか分からずに主を十字架につけたとき、「しかし」主はそのような者たちの赦しを求める祈りを続けておられたのであります。「お赦しください」というところは「解き放ってください」とも訳せます。十字架は解放です。罪に対する無知と罪の捕らわれからの解放です。ルカは39節以下にそれを展開しています。人々には十字架は当然の報いであるけれども、主には当然のことではない。主はご自分には値しないものを引き受けられた。それを共に十字架につけられた一人の罪人が語ります。彼はどうして分かったのかといえば、主の祈りを一番近くで聞いていたからです。主の十字架上の祈りが一人の罪人に聞かれ、それがまた、その罪人の祈りを生みました。彼の祈りは権利主張のようなものではありません。彼は自分が十字架につけられるのは当然であると認めています。「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」などとは言えた義理ではないことを十分わきまえています。しかし、口を突いて出たこの言葉は祈りになりました。彼こそ自分のために泣く者です。十字架に裁かれ、そのうえ、神にも裁かれて滅ぶことを悲しんでいます。自分の罪に泣き、神を恐れました。そのとき、主にすがる他はありませんでした。赦しを執りなし祈り続けてくださる主にすがって祈るほかありませんでした。
 すると、主はこの者の祈りを聞いてくださいました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。この罪人が「あなたの御国においでになるときは」言いますと、主はそれは「今日だ」とお答えになりました。十字架上ですでに救いを引き起こしておられます。さて、この十字架の救いの一部始終は、いったいどのようにして伝えられたのでしょうか。このとき救われた罪人は主と同じように十字架上で息を引き取りました。十字架から降りて来て証言した訳ではありません。「民衆は立って見ていた」(35節)とあります。この民衆は27節でも登場していました。「イエスに従った」者たちでした。主イエスの十字架に従い、立ち会い、見つめていたのが、この民衆です。彼らが、十字架を救いと語り伝えたに違いありません。罪に泣き、また、十字架の主に救われることを語り伝えていったのは、この民衆です。彼らは、自分たちの救いはこれしかないと言ったに違いありません。彼らが、民衆の十字架として、救いとして語り伝えたものを、わたしたちの十字架・救いとして受け入れたいと思います。      


 北一条教会トップページ         これまでのみ言葉