札幌北一条教会 
 
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今月のみことば
「空虚な墓
ルカによる福音書24章1節〜12節
牧師 堤 隆
− 4月12日(日)復活節礼拝説教より抜粋 −
「教会の声」説教(5月号)

 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
                                 (日本聖書協会 新共同訳聖書)

   婦人たちが墓にいってみますと、転がしてある石は見つけましたが、主イエスの体は見つかりませんでした。そのため途方に暮れました。彼女たちにとってお墓は、せめて故人を思い出し、偲ぶ記念の場所でした。それが、今や途方に暮れる場所になってしまいました。しかし、そこに神様が働きかけられました。天使の語りかけがそれを伝えています。「復活なさったのだ〜思い出せ。復活することになるとお話になっていたことを。」(6、7節)天使は自分の告げる言葉を聞けというのではなく、主イエスが復活すると語っておられたそちらの言葉を思い出すのだと言います。この御言を思い出せといいますのは、記憶を蘇らせよという以上です。「イエスの言葉」とある「言葉」は実現する言葉を表しています。ですから、「まだ、ガリラヤにおられたころ、お話になったことを」思い起こせとは、あのときのお語りになったことが実現したことを悟れということです。婦人たちがガリラヤで見聞きした主の言葉と業の集大成は十字架と復活であった。婦人たちは悟りました。それで、もうお墓は途方に暮れる場所でもなければ、単なる記念碑でもなくなりました。遺体が無いので途方に暮れていたら、そこで主の御言が実現したのだと知らされるにおよび、これを悟ることができました。十字架と復活によって、罪人の救いが実現したのだと悟りました。「今生きておられる方を、既に死んだ者の間に捜すのか」(5直訳)と天使は言います。これで婦人たちは主が今や生きておられることが腑に落ちました。
 そこで「墓から帰って、十一人と他の人皆に一部始終を知らせた」(9節)のでした。宗教改革者ルターは「しらせた」というところを「宣教した」を訳しました。原語は「告げ知らせる」ですから、正しい訳です。彼女たちは、噂話をしたのでもなければ、ただの伝言をしたのでもありませんでした。福音として告げ知らせました。心から喜んで宣教しました。ところが、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(11節)といいます。「この話」の「話」とありますのは、8節の「イエスの言葉」の「言葉」と同じ語が当てられています。実現した言葉なのに、使徒たちには「たわ言」にしか思われませんでした。たわ言とは、ナンセンス・空虚な言葉ということです。婦人たちが宣教したときに、「11人」と呼んでいたのに、「たわ言」と思ったと言うときには「使徒たち」と言います。「婦人たちは使徒たちに話した」の「話した」は「つぎつぎと、何度も話した」という表現になっています。人を導く使徒たちでさえ、復活を悟らず、たわ言と思ってしまった。それは「婦人たちを信じなかった」からです。なぜ、信じなかったかといば、この婦人たちの名前から察することができます。どの人も評判は必ずしも良くありませんでした。マグダラのマリヤは七つの悪霊に取り付かれていた人です。ヨハナは、ヘロデに仕える人を夫に持つ人でした。ヤコブの母は、我が子の栄達しか考えない教育ママの元祖のような人でした。使徒たちにしましたら、そんな評判のよくない者たちの言うことは信用ならないと思われたようです。しかし、そんな中でペトロは「立ち上がって墓へ走り」(12節)とあります。ペトロには何かが起こりました。立ち上がらせる何かがありました。この「立ち上がる」は「復活する」と同じ語が当てられています。安息日が明け出かけられるようになっても、お墓に行かずにいたペトロでした。沈み込んでいたペトロが立ち上がりました。それは、ペトロの復活でした。使徒たちは婦人たちの故に信じませんでした。しかし、ペトロは婦人たちの故に立ち上がりました。ペトロは評判の悪い婦人たちの故に信じたのではないかと私は思います。この婦人たちが御言を悟ることができたと言っている。主の御言が実現したと一所懸命に何度も話してくれている。今や罪人が赦されるのだと、喜んで宣べ伝えている。それなら、主を裏切り、逃げ去った自分のような者でも、この婦人たちよりも、もっともっと悪名高いはずの自分でもと思って、ペトロは立ち上がったものと思われます。


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